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岐阜県勢初の決勝進出。天狗山と棚田トレーニング成果あり 美濃加茂 福岡IHストーリー

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岐阜県勢初の決勝進出の陰に天狗山と棚田トレーニング成果あり 美濃加茂 福岡IHストーリー

今大会、岐阜県勢初の決勝進出と躍動した美濃加茂。
今年の美濃加茂の選手たちの奮闘もさることながら、これまでの歴代選手たちの取り組みの積み重ねがあったことを忘れてはいけない。


過去の最高成績は、1985年の(石川県)七尾インターハイ。岐阜農林が3位になった年で、美濃加茂を現在率いる林コーチが高校2年の時だった。
当時大型チームだった岐阜農林、この年から日本でも導入されたスリーポイントシュートを練習していた林龍幸コーチは岐阜農林・荒井強平監督に怒られ、封印。

本格的には大体大に進んでから再びスリーの練習を始め、上級生となった時関西学生トーナメントでスリーポイント王になったことがあるという。
指導者となってからも、スリーポイント対決をしても現役選手のシューターに負けることはなく「まだまだ甘いな」と声をかけていた。


美濃加茂が初めて全国大会に出場したのは、2005年のウインターカップ、この時高2ながら全ポジションをこなすマルチな活躍をしていたのが熊澤恭平
(日本大~アイシン・エィ・ダブリュ アレイオンズ安城)日大時代は篠山竜青(川崎ブレイブサンダース)と同期。
ピンチになると投入され、その運動量の豊富さ、ディフェンダーとして貴重な戦力として活躍。大学3年のインカレではディフェンス王に選出されている。
Bリーグでも活躍できるのではと言われていたが、岐阜国体もあり地元に戻ることを選択した。

2005年のウインターカップでは長崎西に敗退。この熊澤が翌年キャプテンとなり、平成18年の大阪インターハイに初出場、地元東住吉工を下し、全国大会初勝利、
続く能代工戦に大敗を喫している。
初めての全国大会出場はまるでミラクル勝利の賜物だった、と熊澤は当時を振り返る。


「当時の岐阜は岐阜総合が連覇をしていて、うちの3年生は経験のある選手が少なく、インターハイ予選で岐阜総合に20~30点差をつけられてボコボコにやられました」(熊澤)
その敗戦を機に美濃加茂が始めたのはパッシングとディフェンスに磨きをかけること。


県大会決勝、ラスト残り5秒。美濃加茂1点ビハインドの場面でファウルをしてしまい、フリースローを2本決められ3点差。逆転するにはスリーポイントを決めるしか道はなかった。
そんな中、この日1本も入ってなかった先輩が打ち、はずれ。しかし、オフェンスリバウンドも3年がとり、もう一度そのシューターにつないだ。そのシュートを打った瞬間にディフェンスが飛び込み、ブザーとともにボールはリングに吸い込まれた。
つまり、ブザービータースリー、さらに&ワン。時間がゼロのため、リバウンダーは並ばない。
審判が「全員はけて」とうながした。


パリ五輪を見ていた人はきっとあのフランス戦を思いだすことだろう。
異なっているのはすでに時間がゼロだったということ。
「僕はもう疲労困憊でした。延長は厳しい。先輩のシュートが入ることだけを祈りました」(熊澤)

たった1人で打ったフリースローが決まり、その瞬間美濃加茂の全国初出場が決まった。


美濃加茂の変化に気づいたのは3年前。現在の3年が入学してきた年だ。この年、初めて埼玉カップに出場、
美濃加茂の選手がルーズボールを追って額をバッティング、その傷が深いのではと救急車に乗ったのが、
当時のキャプテンだった高橋拓夢(上武大)と昨年のキャプテンだった北條彪之介(青山学院大)の2人。
無事病院から体育館に戻ってきた2人に普段の練習について話を聞いた。

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