限界突パ

【惜別連載】引退の西武・岡田雅利から学ぶプロで生き抜くために必要なこと

Bクラスが確定したパ・リーグ最下位の西武が2人の引退を発表した。チーム成績が振るわなかった今季だけに、リーグ連覇のメンバーだった二人の引退は寂しさが残る。ここ数年の成績から彼らの引退が避けられないものだったとしても、いいチーム状態で現役を退くというのは選手として理想的な形ではないだろうか。彼らが残したものは何だったのか。惜別の想いを込めて彼らの活躍を振り返った(取材・文 氏原英明)

二人の引退のリリースが球団から送られてきたのは先週末のことだった。

実は、筆者はこの二人とは浅からぬ縁がある。20年あまり夏の甲子園大会をフル取材していて、甲子園だけを取材するということはなく、地区大会にも足をよく運んだ。かつては取材拠点が関西だったことから、二人については高校時代から熟知しているのだ。

彼らの引退を聞いて、ふと頭をよぎるのはプロで生き抜くことに大事なことが二人からは感じられるということである。

正直に言って、彼らがプロの世界でここまでやれるとは思っていなかったというのが本音だ。
彼らはどんな選手で、どうして成功したのか、そこには成功の本当がある。

年齢では岡田の方が1学年上だ。奈良県出身で高校は大阪桐蔭。中学時代から名の通った選手で、当初は大阪桐蔭ではなく青森山田に進学するのではないかと噂されていた。

というのも、中学時代のチームメイトが、後にチームメイトになる中田翔(中日)と双璧と言われるほどの逸材で、その選手(中西純平)と岡田はバッテリーで青森山田に行くと思われていたのだ。
しかし、岡田は大阪桐蔭を選んだ。
その理由をこう明かしている。

「中田が大阪桐蔭に行くと聞いて、バッテリーを組みたかったんです。中田はピッチャーとしてすごかったんで」

高校1年秋からベンチ入りを果たすと、背番号は「12」ながら正捕手を獲得した。2年夏には甲子園にも出場している。

上背が高くなくバッティング面ではつなぎの打者という印象だ。ただ肩が異常に強く盗塁をほとんど許さなかった。これには中田のクイックも速かったことが関係しているが、もし、中田が高校時代に肘の怪我を負わなければ、高校球界を揺るがすバッテリーとして注目されたことだろう。それほどの名コンビだった。

岡田の持ち味として機転が効くところも秀でていた。それこそ中田のようなスーパースターをどのように導いていくかは彼がプロで怪我がありながらも続けられた要因かもしれない。

高校3年春、センバツ出場を果たした岡田は怪我が癒えた中田とバッテリーを組むことになったが、中田が本調子とはいえず、それでも、うまくリードした。中田のストレートはシュート回転して抜け気味だったのだが、そのストレートが右打者のインコースに流れていたことをうまく利用して、中田の真骨頂だったカットボールを駆使して打者を牛耳っていたのは見事なリードだった。

プロには2013年のドラフト6位で入団。同期に高校の後輩である森友哉(オリックス)がいた。それだけにレギュラー獲得は難しい状況下だったが、生きる道を見つけていた。

炭谷銀仁朗、森友哉と三者三様のスタイルで、自分の生きる道を切り開いていった。炭谷がFA移籍してからは森を後ろから支える働きを見せた。

「イニングが終わった時とかに、森からは『岡田さんやったらどの球を選びましたか』ってよく聞かれました。同じ時も違う時もありましたけど、森らしく思い切りリードしたらいいんですよ」

岡田はそんな話をよくしていたものだった。

先にも書いたように、岡田は上背のある選手ではなかった。
だから、プロの中でも生きていくことが難しいところはあった。しかし、アマチュア球界を代表したその肩の強さとスローイングの正確性、そして、献身的にチームを支える人間性がプロでは必要とされたということであろう。

毎年10月にあるドラフトを控えて、いろんなアマチュアの選手たちがプロに夢を馳せている頃だろうと思う。

もちろん、どの選手も、主力になること、正捕手としてチームの勝利を導く選手になっていくことを目標にプロを目指すだろう。

岡田も当初はそうだった。

ただ、プロにはさまざまな居場所がある。演劇が主役だけでは務まらないように、脇役、音響、照明、全てが成功に必要なピースなのだ。上背が大きくない中でも、強肩というひとつの武器を手にして、人間的にチームを支えた。

怪我で苦しい時期も多い野球人生だったが、彼のような生き方はこれからプロを目指す選手たちにもひとつのヒントになるだろう。(続)

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