あの日、森下暢仁が浮かべた”ビミョー”な笑顔
九州地区出身のトッププロ選手の高校時代を、スポーツライター加来慶祐が回顧する好評の企画。第2回目の今回は、大分商から明大を経て広島入りし、東京五輪代表にも名を連ねた森下暢仁の2015年を振り返る。
プロか、進学か━━。高校日本代表に名を連ねるまでに成長した右腕の進路が、ファンの間で日増しに注目度を増していく。
厳しい残暑の残る9月、筆者はU-18W杯から戻ってきたばかりの森下を待ち受け、本音を探った。
そして森下はその日の取材で大学進学を宣言する。しかし、あの時に森下が見せた笑顔は、果たして心の底からにじみ出たものだったのだろうか。
森下の活躍を目の当たりにするたびに、今でも時々思い返すことがある。
「プロ志望なら上位指名は確実」と呼ばれた高校時代
あの日、確かに森下暢仁は微妙な笑顔を浮かべていた。
「プロか、大学か」。それまで進路に関していっさい態度を明かすことがなかった大分商・森下暢仁が、私との取材の場で初めて「大学に行きます」と宣言したのである。その日は、2015年9月某日。銀メダルに終わったWBSC U-18ワールドカップから戻ってきた当日だった。
同年夏の甲子園出場を逃しながら、U-18日本代表入りした高校生屈指の右腕。誰もが注目した森下が選んだのは、東京六大学の名門・明大への進学だった。ファンの憶測が日に日に大きくなる中、ついに公表へと踏み切った森下。しかし、その表情は決して晴々としたものではなかった。
高校時代の森下は、1年夏の甲子園に出場。試合出場は叶わなかったが、同学年の川瀬晃(ソフトバンク)とともにベンチ入りを果たす。その後もふたりは投手と遊撃手を入れ替わりで務め、互いをライバル視しながらスキルアップを果たしていく。
当時、大分商のエースは1学年上の左腕・笠谷俊介(DeNA)だった。この笠谷が森下と川瀬を自分のランメニューに加えて常に連れまわした。1年秋時点では、投手としての実力と実績でリードしていたのは川瀬の方だった。ただ、エースの笠谷は森下の潜在能力の高さに気づいていた。渡邉正雄監督(現・佐伯鶴城監督)にも「自分の次は森下しかいない」と言って、秋の決勝先発を森下に託している。
しなやかな腕の振り。美しい胸の張り。1年秋に最速128㌔だったストレートは、2年夏前の東海大相模戦で自身初の140㌔超えをマークした。3年春に147㌔を投げる頃には、すでに全国級の注目投手となっており、その最速は3年夏までに148㌔まで成長。最後の夏は常時140㌔台を叩くまでに仕上がった。
変化球はスライダー、チェンジアップ、スプリットの他に、当時最速137㌔を記録したカットボールの精度が3年春以降に大幅に向上した。また、U-18では大分大会ではほとんど使っていなかったスローカーブを駆使し、緩急という新しい投球パターンを見せつけている。
3年の春を過ぎた頃には「プロ志望届を提出すれば、ドラフト上位指名は確実」という評価が不動のものとなった。一部からは「2位以内は確実」、「いや、1位だって夢じゃない」といった声も聞こえてきたほどだ。
しかし、同時期には「進学希望らしい」という話もひんぱんに耳にした。プロ志望を表明すれば上位指名は濃厚と見る一方で、大学でスキルアップとビルドアップを果たせば、4年後の1位指名も確実だという意見もあった。当然、森下自身の耳にも入っていただろう。
大学生相手に通用しないのに、プロなんて……
その後、森下は大学進学を決意する。「進学宣言」をした取材で、森下は次のような理由を語っている。
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