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「甲子園を目指さなかった高校生」が沖縄初の3校指揮監督に 神谷嘉宗監督の数奇な野球人生 (エナジックスポーツ前編)

2021年に創立し、翌年4月に野球部を起ち上げたエナジックスポーツ高等学院。
創部1期生が最上級生となった2024年には、あの興南を破って早くも春の沖縄で県の頂点に立った。その後、夏・秋ともに準優勝し、秋の九州大会でも準優勝。そしてこの春、学校として初めての甲子園出場を果たした。
チームを率いるのは、浦添商を2008年夏の甲子園4強、2014年春に美里工を甲子園初出場に導いた名将・神谷嘉宗監督だ。
自身は「甲子園を目指さない」高校時代を歩んだ神谷監督だが、3校を率いての甲子園出場という沖縄では初の偉業を達成。創部4年での甲子園も、沖縄では興南の5年を上回る快挙だ。
ノーサイン野球で旋風を巻き起こさんと腕を撫す新興勢力と、これを率いる特異な指揮官。至学館(愛知)との初戦を目前に控えた今、あらためてその実際に迫った。

バレーで春高&インターハイ出場

沖縄本島中部の読谷村で生まれた神谷監督は、幼い頃から抜群の運動神経を誇り、何をやらせてもクラスナンバーワンの存在だった。
当然、地元の読谷高校入学後は野球部に入部するつもりでいたが、当時は体罰や先輩からの“説教”が全盛の時代。同校3年の野球部に在籍していた兄からも「入るな」と忠告を受けたため、神谷監督は入部を断念してしまう。

しかし、その高い身体能力を野放しにしていてはもったいないと、いろんな人たちからの説得を受け続け、1年秋からは野球部に所属。いきなり4番サードで公式戦にも出場した。それでも旧態依然とした暴力体質の世界に嫌気がさし、わずか3か月で退部。
すると今度は、沖縄最強の強豪でもあった男子バレー部から声がかかり「助っ人」として1年生大会に出場することとなった。そこでの活躍があまりに華々しかったため、気が付いた時には春高バレーのベンチ入りメンバーに名を連ねることに。バレーを始めてわずか3か月で全国の舞台に立った神谷監督は、2年夏のインターハイにも出場した。
3年夏が終わると、今度はラグビー部から加勢を頼まれて助っ人出場。ここでも県大会を制して、九州大会出場を果たしている。

人生を変えた1968年夏の興南旋風

このように、オールラウンドのアスリートとしてあらゆる競技の第一線を経験した神谷監督だったが、大学では再び野球をやると決めていた。当然、他の競技関係者からの引き留めにもあった。しかし、中学1年時に抱いた「大人になったら高校野球の指導者になる」という夢だけは、何があっても揺らぐことはなかった。
「ちょうど中学1年の夏に、興南が甲子園でベスト4まで進んでね。一番多感な時期に、あの興南旋風を県民として体感したわけ。後にも先にも、沖縄県があんなに盛り上がったことはなかったんじゃないかな」

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