nines WEB

【高校】佐久長聖を退任する藤原弘介監督インタビュー(上)

佐久長聖高校野球部を13年間にわたり率い、5度の甲子園出場に導いた藤原弘介監督(50)が3月31日で退任、退職する。2012年の監督就任以来、突出した戦績を残しただけでなく、試合に臨む長聖ナインの姿勢や振る舞いは模範となり、県内高校野球界をリードしてきた。

また藤原監督は公式戦の球場補助員などにも積極的に協力し、若手指導者の質問には惜しげもなく助言するなど高校野球の発展にも貢献。名門PL学園出身で元監督だからと鼻につくそぶりを一切見せず、気さくで信州の流儀になじもうとする人柄は多くの野球関係者に親しまれた。

3月末で長野を去る藤原監督に長聖での13年間の歩みや指導への思いを振り返ってもらった。

↓ 3月末で退任し、長野を去る佐久長聖の藤原弘介監督。13年間、数々の取材に全面的に協力いただいた

↓ 就任前の2012年2月にナインズのインタビューに応じる藤原監督。当時37歳の青年監督も50歳を迎えベテランの域に達した

<藤原監督の佐久長聖での主な戦績>
【2012年夏 優勝】
上島、森井、寺尾ら強力打線で10年ぶり5回目の優勝。甲子園は初戦敗退。
(春、秋も県を制し3冠、秋の北信越は初戦敗退)

【13年夏 準優勝】
上田西・柳沢―浦野の継投の前に0-3で完封負け。

【14年夏 優勝】
両角、寺沢のダブルエースで決勝では長野商に10-9で逆転勝ち。甲子園では初戦で東海大甲府に3-1で勝利。2回戦で聖光学院に2-4で競り負け。

【15年夏 準優勝】
上田西2年生エース草海の前に1-2でサヨナラ負け。春は県、北信越で優勝。秋は県準優勝で北信越4強。

【16年夏 優勝】
元山主将(西武)の下、2年生塩澤の好投もあり松商に6-2で快勝。甲子園は開幕戦で鳴門に2-3で惜敗。

【17年夏 準優勝】
青栁―直江擁する松商学園に4-5で惜敗。秋は県準優勝で北信越進出も1回戦負け。

【18年夏 優勝】
強力打線で上田西に4-3で逆転勝ちし100回大会を制す。甲子園では1回戦で初のタイブレークを制し旭川大高に5-4で勝利。2回戦で高岡商に4-5で惜敗。

【19年夏 2回戦】
2回戦(初戦)でノーシード松商に0-7で7回コールド負け。決勝進出が7年連続で途切れる。秋は県準優勝で北信越4強。

【20年夏 優勝】
新型コロナで代替大会となった夏、エース梅野、藤原主将を擁して優勝。秋は県を制し、北信越は2回戦敗退。

【21年夏 8強】
準々決勝で岡谷南に0-1で敗退。藤原監督になり夏の大会で公立校に初めて敗れた。

【22年夏 優勝】
エース廣田、寺尾主将を擁し、都市大に7-1で快勝。県制覇は2年ぶりだが、4年ぶりとなった甲子園は初戦で浅野(巨人)擁する高松商に4-14で完敗。秋は県準優勝し北信越で1回戦敗退。

【23年夏 4回戦】
4回戦で東海大諏訪に2-7で逆転負け。

【24年夏 8強】
準々決勝で長野俊英に1-4で敗退。1年おき、偶数年での県制覇、甲子園出場が途絶える。

<ふじはら こうすけ>
1974年7月、大阪府河内長野市出身の50歳。PL学園では3年春に外野手の控えでセンバツ甲子園に出場。同期に今岡誠氏(元阪神)、1学年下に松井稼頭央氏(元西武)。大阪経済法科大卒。民間企業勤務を経て、1998年からPLでコーチ、2002~08年に監督。監督して夏2回、春1回(4強)甲子園出場。前田健太(デトロイト・タイガース)らを輩出。長聖では元山飛優(西武)、山本晃大(日本ハム)をNPBに送り出した。社会科教諭。

―2012年4月に就任して13年が経った
藤原監督(以下藤原) 長野県は何のつながりもなかったところだったので、不安だらけでした。先日の卒業式の日に、(就任)1年目のときの宍戸主将が送別会を開いてくれて、13年前ですけど鮮明に思い出すことが色々ありました。生徒のおかげでいいスタートが切れたのは確かです。

―(就任前の)前年秋の大会を出場辞退しており、就任したその夏に県大会を優勝できたのは気持ち的にも楽になったのでは
藤原 そうですね。春の県大会を取れて、夏も取れたのはやっぱり大きかったです。

↓ 就任1年目の12年夏を制す

―結局、1年目で春夏秋の3季すべて県を制した。それから13年間で夏に5回甲子園に出場(代替大会優勝は除く)し通算2勝した
藤原 そうですね。最後に甲子園に行った(22年夏の)高松商の試合だけはすごい点差が開いてしまいましたが、そこまでの敗戦はそれほど点差が開くことなく、あと一歩というところでした。

―敗れた相手にはのちのプロに行く好投手とも対戦した(鳴門・河野=日本ハム、高岡商・山田=巨人)
藤原 結果的に甲子園出場が隔年になりましたが、ずっと言い続けてきましたが、やっぱり続けて行きたかったですよね。毎年行くことで生徒の意識も変わっていくのも大きいです。全国でも強豪、常連校と呼ばれるところは連続出場していて、指導者の意識もそうなんですが生徒の意識も違ってきます。「甲子園で勝つ」とは言っていますが、甲子園に出場することが最終目標ではないですけれども、本音のところは甲子園にまず出るっていうことが1つの大きな目標、目的だったかなと思います。

―甲子園の連続出場はかなわなかったが、12~18年の夏の大会は7年連続で決勝に進出した
藤原 先輩方が決勝まで行っているので、生徒たちも「最低でも決勝に」、「自分たちの代でそれを止められない」という思いはあったと思います。

―連続出場を狙うには下級生を主力にある程度入れておくのが合理的。しかし長聖は学年40~50人、多いときは60人を超えていたので下級生を使うのは難しかったのでは
藤原 そうですよね。ただ、学校ありきの野球部なので。野球だけを見れば(下級生を使うことは)大事なことかもしれないですが、今置かれている状況だとか、その中で勝つチームを作らないといけないですね。夏の決勝で負けた試合もきん差で、勝った試合も余裕はほとんどありませんでした。試合だけの采配を見て皆さんおっしゃられますが、僕の思いと考えとしては、そこに行き着くまでの1年間の準備だとか方向性だとかはある程度ブレずにやれてきたかなと思います。

―もう少し少ない人数だったらどうだったか
藤原 人数を絞ってやっていたら、もっと勝てなかったかもしれません。(小林直人)部長とも話していましたが、この場所(学校立地)なので人をどう集めるかが難しいです。例えばPLから来ました監督です、人数は20人に絞って特待生をばんばん使いますとなったら、野球的にはいいと思います。ただし母体である学校に対しては何もありません。だから純粋に野球だけで話ができない部分があります。

―結果として大所帯のチームになった
藤原 人数が多いから県内でB戦とかもいっぱい組めました。ただ、それは相手をしてくださる県内の先生方がいっぱいおられたおかげ。僕自身も人とのつながりをいっぱいいただけました。これが多分少数でやっていたら、先生方とのつながりもなかったと思うんですよね。だから、僕個人的にはこの大人数でやってきて、大変なことも多かったですけれどもやっぱり良かったかなと思います。ただ、結果だけ見るともうちょっと勝ちたかったですし、勝てる工夫もできたかなっていうのはあります。

―甲子園出場と進路指導を「2軸」(目標)にしてきた
藤原 教え子は550人ぐらいになりますかね。野球だけで考えると勝った負けたの話ですが、甲田(16年甲子園出場時の4番)みたいに今医学部に行っているOBもいますし、パイロットの資格を取った子、警察で働いている子やいろんな子がいます。このやり方が正解かどうかって言われたら、自分の中では彼らの長い人生を見たら良かったのかなとは思っています。

―卒業生の井出海翔投手は今季上武大で主将になるなど、進学先の大学で活躍する選手が多い
藤原 高校から大学に行くにあたって硬式野球部の数はどうしても減り、淘汰されていきます。それでも野球をやりたいと言っている生徒に対して、「お前じゃ無理だ」ってことは言ったことないですね。人から無理だと評価されるよりは、自分でチャレンジして、そこで自分で区切りをつけたり、社会に出てから負けないぞとなったり、自分で判断できる場所になってくれたらいいです。

―大学で続けることが長聖ではごく普通になっている
藤原 大学での継続を後押しすることによって、平均したら進学したうちの6割から6割5分ぐらいが、硬式、準硬式、軟式関わらず継続しています。よく高校で「もうやり切りました」と聞く割には結構草野球をやったりとか、やっぱり野球が好きなんだと思います。だんだんそういう子たちが先輩になると、後輩たちも大学でやれるんだ、やりたいとなっていきます。

―大学、さらに社会人野球でも継続、活躍する卒業生が増えた
藤原 (14年甲子園出場時の)寺沢(星耶、現東京ガス)が上武大に行って全日本大学選手権でバンバン投げている姿を見たら、「寺澤さんみたいに大学に行ってもなりたい」とかになりますよね。

―高校時代は控えやベンチ外の選手も数多く続けている
藤原 部長ともよくその話はしていましたが、100%はなかなか無理だと思うんですけど、1人でも多くの生徒が「長聖に来て野球ができてよかったな」と思ってもらえるようにしたかったのは確かですね。(夏の大会前のベンチ外3年生による上田西との)交流試合もその一つですね。

<インタビュー下に続く>

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ