久保憲司のロック・エンサイクロペディア

レディオヘッドの新作『ア・ムーン・シェイプト・プール』は『OKコンピューター』が予言していたものを明確にしたアルバム(久保憲司)

A Moon Shaped Pool
正直に告白しますが、昔、僕はレディオヘッドはダサいバンドと思っていました。

初めてレディオヘッドを見たのは、1994年のグラストンべリー・フェスティバル。ステージ上で鉄腕アトムのTシャツを着て歌う金髪のトム・ヨークを「誰やトム・ヨークに鉄腕アトムのシャツあげたん、ダサすぎるやろ」と思っていました。日本ツアー直後のライブだったんです。

バンド名はトーキング・ヘッズの曲名から。あの頃のイギリスはトーキング・ヘッズをリスペクトしていたバンドが多かった。イギリスの連中はみんなデヴィッド・バーンの歌詞にやられていたわけですが、それを恥ずかしげもなく、“俺たちトーキング・ヘッズ好きなんよ”と臆面もなく言っているのはどうだろうと思っていた。『パブロ・ハニー』と云うアルバム名もベタすぎるでしょう。オックスフォードのインテリかもしれないけど、なんかセンス悪いわというのが僕のレディオヘッドへの印象でした。

しかも唯一売れた「クリープ」もニルヴァーナの二番煎じ(ニルヴァーナのは自分がキモいじゃなく、娘が少女じゃなくなったという歌ですけど)、もっと言えばマガジンの「A Song from Under the Floorboards」の焼き直しと思っていた。それに売れたと言っても、イスラエルですからね。ユーロビジョン・コンテストかと思ってました。ファンの皆様すいません。

 

 

Ok Computer1994年のグラストンヴェリーと言えばオアシスが4時くらいに出てきて、メインでもないのに、会場が大合唱に包まれた年、これからイギリスはオアシス一色になるんだろうなと予感された年だった。そして、その通りになった。

このオアシスなんですけど、初めてマネージャーと契約した時、マネージャーから、「お前らイギリスで売れなかったからってあきらめるなよな。ドイツで売れるかもしれないし、どっかの国で売れるまであきらめるんじゃないぞ」という指示出しがあったんです。1994年のオアシス・デビューの時、誰もオアシスなんてロック最先端のイギリスで売れないと思っていたんですよね。でも蓋を開けみるとじわじわと売れていった。レディオヘッドはイスラエルで売れたことによって何とか首の皮が繋がった状態だったのです。

そんなオアシス旋風が吹き荒れる中リリースされた『OK コンピューター』はとんでもないアルバムだった。

 

 

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tags: Magazine Oasis Radiohead Talking Heads

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