松沢呉一のビバノン・ライフ

大橋仁問題に見られる手続論と作品論の混同-[娼婦の無許可撮影を考える 5]松沢呉一 -2,358文字-

大橋仁の釈明と「モラル」について ・・・[娼婦の無許可撮影を考える 4 ]」の続きです。

 

 

 

手続論と作品論の違いを改めて説明

 

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「大橋仁の釈明とモラルについて」の最後に書いた大橋仁への提案に賛同してくれた方々がいっぱいいらっしゃいまして、ホントにそうするといいと思います。その旅もまた新たな表現につながるかもしれない。「それをも自己顕示のネタにするのか」という批判もあるでしょうけど、何を表現のネタにするもよし。そんな批判はほっといて、手続ミスをやり直すことが被写体にとっても大橋仁にとってもなにより大事だと思います。

あの提案が目新しく見えたのは、たぶん「何が問題か」の整理がつかないまま議論がなされてきたことに原因があるんだと思います。

いささか蛇足っぽくなりますが、写真撮影に限らないことであり、とくに著作権について「これはなんとかした方がいい」と思っていることがあるので、もう一度説明しておきます。

できあがった作品としてどうなのか、つまりその写真だけを取り出してどう評価するのかは「作品論」です。そういう議論もあっていいのですが、今回のことで、まず論ずべきは手続です。その作品はどのように撮られたのか。権利をクリアしているのか。こちらは「手続論」です。

「娼婦の無許可撮影をするゲス写真家は今に始まったことではない」で、この「手続論」と「作品論」の違いを説明したつもりですが、どうしても両者がごっちゃになりやすい人たちがいるようですし、大橋仁自身もそうだと思います。どれだけ素晴らしい理念で写真を撮っていようとも、手続を省略していいことにはならない。「それだけ素晴らしい写真だったら、事後でいいので承諾をもらえばよかったですね」で終わってしまいます。

ラボから流出した写真があったとして、それが素晴らしい写真だったら、撮影者や被写体に無断で公開していいんかって話です。ダメでしょ。「大きな命のエネルギーにただただ飛び込みたいだけだったんです」と言っても、知らんわ。

手続に瑕疵があれば作品として評価する必要はないのです。大橋仁に対して、「信頼を得た方がもっといい作品になる」みたいな批判をする人がいましたが、これは作品論に踏み込んだ批判です。許諾を得た方がもっといい作品になるかもしれないですけど、そうじゃないかもしれないわけで、こういう批判に対しては「いや、許諾をとると予定調和なものにしかならず、無断で撮って初めて素の表情が出る」という反論も可能であり、その考えが間違っているとは私には思えません。実際、そういうことはありますから。

 

 

いかにすぐれた表現でも手続を飛ばしていいわけではない

 

vivanon_sentence例えばここに出した写真。裏風俗で働く女性の脚です。下着が見えている写真も撮ってますが、顔は撮らない約束です。

服やバッグから身元がわかることもあるわけですけど、そのことも確認しています。仕事の衣装や持ち物をふだん使わなかったりする人だと、その辺は気にしない。

 

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