映画「ヨコハマメリー」のこと-「闇の女たち」解説編 30-[ビバノン循環湯 148] (松沢呉一) -6,940文字-
2006年にメルマガ「マッツ・ザ・ワールド」に書いたもの。ひさびさに読み直して、10年前も今も考えていることはまったく同じであることに「進歩がない」と呆れつつ、私が変わらないのは、世の中が変わらないためなのだと改めて思いました。こういう主張を理解できる人は少ない。だから同じことを言い続けるしかないのです。
「ヨコハマメリー」を観て号泣し、「自分はこのテーマを追い続けることができなかったけれど、これでもういいや」と一度は納得しながら、この思いがやっと形になったのが『闇の女たち』でした。
映画「ヨコハマメリー」のこと
メリーさんが横浜から消えたのは1995年。私が街娼インタビューを始めたのはそのあとなので、会おうにも会えなかったのですが、当然その名前は聞いていました。
しかし、「一度会っておきたかった」とも思っていませんでした。というのも、全国各地にメリーさんのような存在がいて、その人たちに会って話を聞くことで頭がいっぱいだったからです。それに、元来のひねくれものですから、それだけ知られている人であれば、何も私が追うまでもないだろうと思ってました。
中村高寛監督の「ヨコハマメリー」については、この映画の宣伝を担当しているアルゴ・ピクチャーズの細谷さんからずいぶん前に話を聞いていて、試写状も送ってもらっていたのですが、積極的に観たいとは思えないでいました。
街娼をずっと追ってきたくせに、いまさら何を言っているのかってことですけど、「 ライフワーク」とも言っていた街娼のインタビューをわかってくれる編集者はほとんどおらず、支持してくれる読者もほとんどおらず、継続することが不能となってしまいました。
思い入れの強い仕事(あんまり仕事にはなってなかったわけですが)だっただけに、もう触れたくないものになっていたのです。
インタビューを継続することは無理でも、一冊にまとめておきたいとも思い、「予約投票」(注)に出し、そのコメントを見て、数が少なくとも、読みたがっている読者たちがいることがわかって、本にして残すことの意欲はかきたてられたのですが、風俗ライターを継続できなくなって、その気持ちも萎えました。
風俗ライターである自分を葬りたい気持ちが強まり、風俗ライター時代の仕事はすべてなかったことにしたい。この一年はその努力をしていたように思います。だから、 自分が一所懸命に力を注いでいたことにつながる「ヨコハマメリー」も避けたい気持ちがありました。
しかし、細谷さんがメールやFAXを繰り返し送ってくれて、3月3日の最終試写に出か けました。避けたかったのに避けられなくなったとでも言いましょうか。
注:「予約投票」というのは、私の提案で、ポット出版で試みた企画。読者が100人予約してくれれば本にして、その人たちの名前を本にも掲載するというもの。しかし、私が出したものはすべて100人に達しませんでした。本年、『闇の女たち』という形になってから、興味を抱く人はけっこうな数いたわけですが、形にならないと、理解してくれる人はそのくらい少なかったのであります。なお、そのサンプル原稿を読んで、「本にしたい」と思い続けてくれたのが新潮社の編集者でした。
横浜の名所「根岸屋」
映画はメリーさんを知る人々のコメントを中心に、メリーさんのみならず、その時代 背景を丹念に追っていきます。
メリーさんはもともとは横須賀で街娼をやっていて、白いドレスを着て、ツバの広い 帽子をかぶったその艶やかな出で立ちから、皇后様と呼ばれていたそうです。
やがて彼女は横浜に流れてきます。本牧は米軍に接収され、チャブ屋は別の場所に移転して、もっぱら米兵向けの売春宿となり、真金町の遊廓は赤線となり、親不孝通りは青線と なります。
そして黄金町から曙町にかけては街娼ストリートとなり、伊勢佐木町周辺にも女たちが立っていました。
かつて伊勢佐木町に根岸屋という居酒屋がありました。そのうち、「松沢式売春史」 (メルマガで長期間やっていた連載)でも詳しく出てきますけど、居酒屋なのにジャズバンドが演奏し、米兵、不良、パンパンたちが集まる、この時代の横浜を代表する店のひとつでした。
亡くなった上野文庫の中川さんも、早稲田大学に入って、わざわざ根岸屋を見るために横浜まで出かけたと言ってました。映画にも登場し、雑誌にも取りあげられてましたから、「一度は行っておかなければ」という店であり、常連さんのみならず、 いわば見物人や観光客も集まってきていたのです。60年代にはもう米兵やパンパンの姿はほと んどいなくなっていたと思いますが。
根岸屋には洋パンもいれば和パンもいましたが、ここの名物は唖パン・グループでした。聾唖のパンパンです。これについては大宅壮一も書いていたと記憶しますし、この映画でもコメントの中に出てきますが、数人のグループを形成していたようで、当時のものを読むと人気があったらしく、根岸屋のことを書いたものには必ずと言っていいほど出てくるような存在でした。他の場所でも聾唖のパンパンはいたでしょうが、それが 一定の勢力をもっていたのは根岸屋ならでは、横浜ならではかもしれません。
メリーさんはここで洋パンをやっていました。「松沢式売春史」を読んできた方はおわかりのように、洋パンは学歴も高く、プライドも高く、「家族のため」というよりも家族に背を向けたタイプが多く、赤線の女たちはもちろん和パンとも違うタイプの 女たちです。その中でもメリーさんは気位の高い女で、仲間と群れなかったらしい。
映画を見ると、当時のパンパンたちが闘っていた様もコメントの中に出てきます。旧来の道徳と闘い、家族と闘い、社会の視線と闘い、警察と闘い、男たちと闘い、女たちとも闘っていました。
しかしながら、全国で蜂起した女たちは狩り込みによって次々と弾圧されていき、ある者は消え、ある者は白線に流れます。また、ある者はヒモをつけることによって、 自立の道を捨てていきます。
戦士たちが次々と倒れていく中で、横浜で一人闘いを続けたのがメリーさんでした。
※映画「ヨコハマメリー」より
一人で観るべき映画だった
私はメリーさんがいなくなったあとの横浜で、日本人街娼を探したことがあるのですが、一人も見つけられませんでした。立っているのは、すべて外国人でした。
その頃はコロンビア、中国、ロシアといった各地 から来た街娼が立っていたものですが、今は入管が厳しくなって、中国系と思わしき 街娼が大岡川沿いにチラホラいる程度です。
どうやら横浜における最後の日本人街娼がメリーさんだったようです。米兵がいなくなって以降は日本人も相手にするしかなくなり、やがては客がつくこと自体ほとんどなくなっていたでしょう。住む場所もなく、ビルの通路で寝る生活です。それでも施しは受けず、孤高の闘いを続けていたのです。
コメントする人たちの中には団鬼六のように、世間一般の人と同様、メリーさんを化け物、お化けとして扱う人もいるのですが、彼女の闘いを見守る人たちもいました。クリーニング屋、宝飾店、化粧品店、美容室の人たち……。
その一人が永登元次郎(ながと・がんじろう)でした。自分の店でシャンソンを歌い続 けていた歌手です。この映画を成立させているのはこの人です。
晩年のメリーさんを 支えていた永登元次郎さんは男娼をやっていたこともあって、おそらく闘い続けたメリーさんにかつての自分を見出したのでしょうし、今も風俗嬢たちとゲイ・グループが 親交をもっていることがあるように(とくに私の周りですが)、社会から向けられる異物への視線が共通しているってこともあるのでしょう。
元次郎さんは、メリーさんに生活保護を受けさせようとするのですが、住所がないために受けられず、結局は別の人の計らいで、実家に連絡をとり、養老院に収容されます。これが1995年のことです。
その元次郎さんは、ガンに冒され、闘病生活に入ります。映画はそんな元次郎さんの語りを中心に進んでいきます。
最後の10分間はいくぶんあざとくもあるのですけど、それまで抑えていた涙がとまらなくなりました。映画のあとで、細谷さんに感想を求められても、涙が流れ出てきて、 言葉にできませんでした。
試写は観るべきではなかった。つくづくそう思いました。誰もいない映画館で一人で 観て泣き続けるべきでした。
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