松沢呉一のビバノン・ライフ

間違いだらけのとしをの記憶—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 30-(松沢呉一) -2,676文字-

前回の最後に予告していた岩波書店の対処についての推測やその他モロモロはカットしてまとめに入ります。(追加編として出し直しました。「著者の死後、著作物の間違いを直すべきか否か—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 追加編 3」「岩波書店の事情を推測する—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 追加編 4」)

 

 

 

高井信太郎と結婚ができると思っていた不思議

 

vivanon_sentenceそもそも私が高井としを著『わたしの「女工哀史」』を手にしたのは、『女工哀史』のこと、細井和喜蔵のことをより知りたかったためであり、それ以外の関心は強くないため、噓や誇張が混じっていても、いちいち調べる気にはなれないのですが、細井和喜蔵が亡くなったあと、としをが大阪に移動してからの記述を読み直したら、またもおかしな点があることに気づきました。細井和喜蔵に関する記述にもつながるので、これにも触れておきます。

大正十四年(一九二五)八月に細井和喜蔵死去、翌年子どもが死去。十月から印税の支払いが始まり、この年から翌年にかけて、としをは金を使いまくったあと、四月に改造社に印税の支払いを打ち切られるのですが、その時、としをは高井信太郎と結婚することを前提にして、「金を払え」と要求しています。この時、高井信太郎は無職です。

「三文文士」左翼の売れない原稿を書いている細井」として結婚に反対したはずの父親が、無職であり、労働運動だけをやっている高井信太郎との結婚を許すはずがないのに、なぜとしをは高井信太郎とは結婚できると思っていたのでしょうね。

ここは入籍をするという意味ではなくて、事実婚、つまり同居をすることを「結婚」と表現しているだけということでスルーするとして、大阪で高井信太郎と結婚した際の記述がひっかかるのです。

※夜の亀戸

 

 

信太郎ととしをはいつ入籍したのか

 

vivanon_sentenceとしをは大正十五年(一九二六)十月に単身大阪に移動します。

そして、大阪で高井信太郎と偶然再会をします。偶然なのかどうか私は疑わないではいられないのですが。

その時に高井信太郎が「君がいなくなってからこの三ヶ月」云々と言っているので、昭和二年(一九二七)一月のことかと思います。二月に同居を始めて、この年に長女を出産とあるのですが、出産した月の記述はありません。東京にいる段階ですでに身ごもっていた可能性もあります。

 

 

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