関東大震災と洋装普及—女言葉の一世紀 51-(松沢呉一) -2,471文字-
「お茶の水女学校の校則—女言葉の一世紀 50」の続きです。
震災が洋装を増やした事情
関東大震災はさまざまなところに影響を与えています。性風俗関係で言えば、浅草十二階が倒壊し、十二階下も壊滅して、玉ノ井、亀戸という新たな私娼窟を生み出し、半公娼化していきました。
東京に見切りをつけて大阪に移転したダンスホールがその地でもダンスブームを巻き起こし、焼け出されて下町から武蔵野方面に移転した人たちが中央線沿線を活気づかせるといった現象もあったのですが、経済的不安が高まって倒産が相次ぎ、この時の失策が、のちの昭和金融恐慌や昭和恐慌の遠因になったという見方もあります。
前回見たように、東京の女学校では、関東大震災によって「洋服着用者著しく増加」という現象あったわけですが、その具体的な事情は『創立五十年』(昭和七年)には書かれていません。世間一般に広く起きた現象のため、説明は不要だったのでしょう。
世間一般では「着物は災害時に行動的ではない」として、女性の洋装化を進める意見が出て、ここから洋装化が加速していきます。でも、よくよく考えると、ちょっと変なのよね。
草履や下駄より靴の方が一般には逃げやすいとは言えますが、紳士靴や運動靴と違い、婦人靴はヒールの高いものが多かったですから、草履の方がまだましでしょう。とくに当時は石やコンクリートで舗装されていない道も多く、災害時じゃなくても歩きにくい。
洋装もさまざまであって、もっとラフなものもあったわけですけど、流行りの洋装は膝くらいまで、あるいは膝下の細めのスカートが主流ですから、これも行動的な衣装とは思えません。一般に着物の方が重くて袖が邪魔ではありますが、裾引きの時代はともあれ、着物の方が大股で歩ける利点があって、着物だってスカートだって総合的にはそんなに大きく変わるようには思えません。
ただ、着物の場合は前がはだける難点があります。今現在想像する以上に、女が脚を出して歩くのは相当にはしたないことで、それを気にして逃げ遅れた人がいたかもしれないですが、現にそういった経験をした人たちが「洋装の方が逃げやすい」と判断したというよりも、震災による犠牲者の状態がそう思わせたのではなかろうか。
※イラストはふたつとも河盛久夫著『先端を行く』(昭和五年)より
関東大震災の遺体写真が出てくるので、平気な方のみお進みください。
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