松沢呉一のビバノン・ライフ

ヨーロッパで排斥されたキリスト教教育が日本へ—女言葉の一世紀 106-(松沢呉一) -3,515文字-

湯原元一・東京音楽大学校長の先進的意見—女言葉の一世紀 105」の続きです。

 

 

 

男女共学か、別学か

 

vivanon_sentence湯原元一の著書『欧米通俗教育の実際』(大正二年)にある「通俗教育」というのは、学校の教育以外の教育を意味します。出版や映画などの複製物、図書館やホールなどの公共施設、家庭や職場での教育など全般のことです。こちらの本はタイトル通り通俗教育に絞った内容で、一方の『欧米教育界の新趨勢』(大正三年)は学校教育を中心とした講演に加筆したものです。

男女共学については、『欧米教育界の新趨勢』の最終章「敎育の主義並に方法に關する改革運動」の後半に出てました。本の最後の最後。この章だけ読めばよかったかもしれない。

この頃にはすでに欧米では男女共学は当たり前になっていたのかと思ったら、そうでもない。米国を筆頭に男女共学が急速に進みつつあっても、なお男女別学の学校の方がたいていの国では多く、なおかつ反対意見も強い。とくにカトリックの学校で男女別学が強いとのこと。

今もこの問題については議論があって、とくに昨今は別学の効用が見直される傾向が米国でも日本でも強まってきていますが、本書には「初等教育と大学は共学、中等教育だけは別学」という考えで識者は一致しているという話も出ており、これは一理あります。

この本の記述を読むと、たんに男女の特性の違いがあるために、それぞれに合った教育をした方がよく、とくに思春期にその差が生ずるという考え方のようにも思えますが、今現在の別学支持の考えからしても合理的ではなかろうか。

色気づくと異性を意識して勉学に集中できなくなるというのではなくて、男女関係を前提としたヒエラルキーが生じたり、自己抑制が生じたりするため、とくに女子は能力を伸ばせなくなり、行動を抑制するようになるというのが今現在の別学支持派の意見かと思います。私はそんなによくはわかってないですが、この考え方だと一定理解できる。

これもまた色気づいて異性を意識することによる部分もあるわけですが、それだけでもなく、たとえばゲイであれ、レズビアンであれ、異性との関係は恋愛感情や性的関係とは別に生じ、しばしばそれは社会構造を反映しますから、その負荷を極力下げておく。人格形成を終えたあとの大学ではもうその負荷がかかりにくいってわけです。

その是非はともかくとして、男女別学であるがゆえに女性教員の育成が進んでいることが別の章から読み取れます。どこの国でも急速に女子教員の採用を増やしているところで、これは女子が高等教育を受けるようになったため、教員への人材供給が可能になったとともに、フランスなどでは女学校の教員は女子に限定されるため、需要が高まったことによります。

そのフランスでは比較的マシなのですが、この頃でもなお男女の給与差が大きいことも具体的に記述されています。

※上の写真は同書より、料理学習の様子。おそらくドイツです。女子に対しては欧米でも料理、裁縫、洗濯といった家事の授業が行われていました。下の写真はセントルイスの小学生とのことですが、エプロンをしている女子がいます。もちろん、西洋前掛けです。どうやら教員も生徒もエプロンを常用しているのがいたようです。

 

 

宗教教育排斥の動き

 

vivanon_sentence最終章の「敎育の主義並に方法に關する改革運動」は前半も読みどころです。

ここにエレン・ケイ(本書では「ケー」)が改革派として登場し、その主張が詳しく紹介されています。日本では婦人思想家として紹介されることが多かったわけですが、エレン・ケイは教育思想家でもあります。そっち方面の本も読もうとしたのですが、私は挫折しています。なんだか宗教臭く感じて読み進めることができなかったのですが、彼女は宗教教育の排斥を主張していたことを今回この本で知りました。理想を掲げることで個人が犠牲になることを批判していたエレン・ケイからすると当然ではあります。

 

 

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