野口亮の書いていることの信憑性—浜田栄子はなぜ死を選んだのか(8)-(松沢呉一)-3,794文字-
「涙なしでは読めない栄子の遺書—浜田栄子はなぜ死を選んだのか(7)」の続きです。
死してなお冷酷な母・捨子
野口宛の遺書を栄子が誰に託したのかわからないのだが、翌日朝、菊池行夫のところに届く。「大至急手渡して下さい」との添え書きがあったため、菊池は車を飛ばして野口の下宿に行くが、野口はこの時不在。この時に野口が手紙を受け取れていれば死ぬ前に会えていたかもしれないのだが、午後になってこの手紙を受け取って、中を開く間もなく野口が浜田宅に向おうとしたところに使いの者が来て、栄子が亡くなったことを知らされる。
栄子が死に瀕しているのに、浜田家の者、そして尾越弁護士は野口に知らせようともしなかったのである(遺書を送ったことを浜田家の誰かしらが知っていた可能性が高く、それで野口に伝わると考えたのかもしれないのだが)。
野口は遺書にあった通りに葬儀屋に連絡をとり、遺体を引き取ろうとしたのだが、尾越弁護士はこれを聞き入れず、浜田家で葬儀を行うことになり、野口は葬儀の際に初めて栄子の遺体を抱き、落涙しながら復讐を誓う。
棺が家を出る時に従ったのは雑役の者四、五名のみで、尾越弁護士も捨子もおとみもいなかった模様。捨子は「やっとこれで安心した。これで枕を高うして寝られます」と人に語ったそうだ。
そして、捨子は放蕩狂いの捷彦を毒殺する計画を野口に持ちかけたことまで野口亮著『逝ける栄子の為めに』には書かれている。
メンツのためには自分の子どもの死までを願う人間。娘に自殺を迫った矯風会の創設メンバーである佐々城豊寿を思い起こさせる。
※文化学院旧校舎
捨子宛の遺書
栄子の遺書は捨子宛のものもあり、こちらはあっさりしている。
お母様私は此の余を去ります。
私は死んで御母様への不幸の罪と野口への申訳を致します。今更ぐちを申す様で御座いますが、御母様が私の一生の御願ひを通して下さったら、どんなに幸福だったでせう。私は死ぬまで野口が立派な紳士であることを証明致します、将来有望なる青年紳士を罪なくして面目をふみにじった人々を私は恨みます、私は今頭が何だかわからなくなりました、私は行きませうお父様や愛児のそばに、御母様はどうぞ幸福に御暮らし下さいませ。私の死体は何うぞ野口にお渡し下さいませ。これが私の最後の御願いで御座います。どうぞ御母様御ねがひ致します。
栄子
※適宜句読点には手を加えている
こちらの遺書における遺志ははっきりしていて、野口を守ることと、「私の死体は何うぞ野口にお渡し下さいませ」の部分。あとは形だけ。
野口亮著『逝ける栄子の為めに』によると、この母親は、栄子を理解してくれ、結婚を認めるように説得をしに来た人物にこう言っている。
あれは私の子供ではないのです。何処でのたれ死にしても構ひません。早く死んで呉れればいいと祈っている位です。
生前も死後もその姿勢は変わらなかった。そして、この母親は最後の娘の願いを叶えることもなく、遺骨の一部を野口に渡したのみであった。
(残り 2657文字/全文: 3970文字)
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