松沢呉一のビバノン・ライフ

性の領域に国家が介入することの是非—セックスワークにおけるフェミニズム内の対立(下)-(松沢呉一)-3,607文字-

『読む辞典—女性学』の「売春」の項—セックスワークにおけるフェミニズム内の対立(上)」の続きです。

 

 

 

フェミニズム内の対立点

 

vivanon_sentence前回引用したゲイル・フィータースン「売春 Ⅱ」を読めば、「フェミニストは売春を否定する」と決めつけるのは間違いであることがよくわかりましょう。日本ではそう見ることが不自然ではないかもしれないですけど、フェミニズムと道徳の距離が近い国だからです。道徳と距離を置いたフェミニズムが力を持っている国の中では意見がまっぷたつに分かれています。

引用文に出てきたジョゼフィン・バトラー(Josephine Butler)は売春婦たちのシェルターを設立し、人身売買、児童買春に反対した英国人です。

引用文にあったように、バトラーは「国家による規制売春」と「とくに売春婦に対する警察の不当な性的取り扱い」に反対の立場です。

続く「社会の純潔」運動は日本でも起きていた宗教的純潔運動なのだと思われますが、警察の権限拡大を求めるものでした。

1970年代に起きたセックスワーカーの運動とそれに連帯するフェミニストは「国家が売春を犯罪とみなすこと」「警察が女性たちを不当にとり扱うこと」に反対します。つまり、その点においてバトラーの主張を継承しています。

これに反対した「売春廃止論の流れを汲むフェミニストたち」は「国家がもっと厳格に介入」することを要求するものでした。つまり、その点においては純潔運動を継承しています。

以上の点から、売春をめぐる対立は「国家権力が性の領域に介入すること」をどう評価するかの違いと見ることができます。さらに補足するなら、女が自身の体を使うことに対して、国家権力が是非を決定することをどう評価するのかの違いです。わかりやすい。

英語版WikipediaのJosephine Butlerの項より、 George Richmondによる肖像画

 

 

国家権力の介入をめぐる両者の評価

 

vivanon_sentenceジョゼフィン・バトラーはヴィクトリア時代のキリスト教徒であり、売春否定の象徴的な存在と見なされているのですが、その主張は正確に見ておく必要があります。

日本の廃娼運動は「国家が売春を犯罪とみなすこと」に反対していたのではなく、むしろ国家が売春を犯罪とすることを求めました。その根幹にあったのは売春否定であり、伊藤野枝が激烈に批判したように、売春蔑視も露でした。

その動機は貞操を守ることでもありましたから、ストレートに純潔運動につながっていきます。これについては「廃娼運動=売防法=純潔運動—道徳派の手口 1」を参照のこと。

これを担ったのは矯風会と救世軍です。救世軍は英国発祥のプロテスタント団体であり、バトラーはこの救世軍とともに活動していた時期があるため、誤解をしてしまいそうですが、バトラーは宗教的道徳主義に基づく売春否定とは一線を画していました。

ここは大事。大事なのですが、日本では廃娼運動の中にこのような主張が見られなかったため、理解しにくいところです。だから、売防法も制定されたわけですし。

私がバトラーについて知ったのは藤目ゆき著『性の歴史学』であり、バトラーの活動はこのように書かれています。

 

 

廃娼運動は、少なくともその始発には、売春そのものを排除する運動ではなかった。そうではなく、売春に対する国家統制や売春からの搾取に反対する闘争として開始するのである。

 

 

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