松沢呉一のビバノン・ライフ

「結婚しているフェミニスト」は成立し得るか?—女の分断・フェミニズムの分断 [3] (松沢呉一) -3,213文字-

ミルとベーベル—女の分断・フェミニズムの分断[2] 」の続きです。

 

 

 

結婚肯定・売春否定」は旧来の道徳をなぞるもの

 

vivanon_sentence前回見た「結婚と売春をめぐる分類」において、旧来の売春のありようは、国家の公認であったがために、表面的には「結婚肯定・売春肯定」だったように見えてしまうのですが、その内実は個人の主体的選択を認めず、家族の事情によってやむなくするもののみを許可するものでした。家族のための自己犠牲は売春への蔑視を超えます。そこから外れて売春する女たちは処罰の対象であり、蔑視の対象です。これはベーベルの指摘を考えても合理的です。

そのために国家権力による厳密な資格審査がなされました(鑑札です)。家族制度の維持を背景にした仕組みだったと言っていい。したがって、個人の意思による売春という観点から見た時には、「結婚肯定・売春否定」ということになります。これが国家が望む性道徳でありました。

その表面的な制度をも廃止して、本質の「結婚肯定・売春否定」という道徳を実現しようとしたのが廃娼運動であり、売防法です。対立しているように見えながら、旧来の道徳と分断されていないのです。むしろ、日本においては純潔、貞操を女に押しつけるという点で性道徳が強化された側面も見逃せません。これも前回見た通り

結婚肯定・売春否定」はベーベルの指摘に添えば、コインの表裏である両者において、後者を蔑視することで前者を高める道徳をなぞるものでしかない。

これに対して、性の領域に国家が介入することそのものを否定するフェミニズムの潮流が生まれていき、集娼制度にも、それを法で違法にすることにも反対する。個人売春容認、集娼制度廃止という方向です。その延長にあるのが非犯罪化です(追記参照)。

私はこの立場です。「結婚肯定・売春肯定」。結婚するもしないも、売春するもしないも個人が決定すればよく、個人の決定である限り、その選択を尊重して、第三者は介入しない。まして国家が法でその選択を禁止したり、制限したりすべきではないということになります。そこに男女の不均衡が存在していても、その不均衡はそれ自体の改善を目指すべきであり、むしろ選択肢の制限は、不均衡の固定につながりかねないと考えます。

一方にはおそらく「結婚否定・売春否定」(あるいは「結婚否定・売春肯定」の可能性もありますが)の人たちがいます。同性婚に対しても、この立場から反対しているフェミニストたちがいます。否定すべき結婚制度に同性愛者が組み込まれることに反対する。

気持ちはわからんではないですが、個人主義者の私としては、異性愛者は選択できるし、結婚しない選択もできるのに、同性愛者が結婚を選択できない、あるいは結婚を拒否する選択もできない現状はあきらかに不平等ですから、これを改善すべきということになります。

※写真はSWASHのゆるくないキャラ・すてぃぐま

追記:セックスワークをめぐるフェミニズム内の対立は国家権力が性の領域に介入することの是非をめぐるものであるとの視点は「『読む辞典—女性学』の「売春」の項—セックスワークにおけるフェミニズム内の対立(上)」「性の領域に国家が介入することの是非—セックスワークにおけるフェミニズム内の対立(下)」を参照のこと。ゲイル・フィータースンのまとめはホントにわかりやすいし、それをまとめた私の文章も大変わかりやすくなっております。

 

 

結婚しているフェミニストは信用できない?

 

vivanon_sentenceタイトルは忘れてしまいましたし、正確な言葉も忘れてしまいましたが、かつて小倉千加子が「結婚しているフェミニストを信用しない」みたいなことを書いていたことがあります。プロフィールにも書いていたんじゃなかったかな。

この場合は実質的な婚姻関係のことではなく、法的な制度としての婚姻でしょうし、「フェミニストは結婚してはいけない」「結婚したらフェミニストの資格がない」とまでは言っておらず、あくまで小倉千加子個人の基準として信用ができないということです。また、フェミニストという限定がついてのことであって、広く一般に適用するような話でもないのだろうとも思いますが、結婚制度に疑義を抱くフェミニストがそう言いたくなる気持ちはわかります。

この言葉に同調はできないながら、矛盾なき姿勢として理解はできる。

 

 

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