松沢呉一のビバノン・ライフ

吉岡彌生を頂点に市川房枝やガントレット恒らが結集—女言葉の一世紀 145(松沢呉一)-4,186文字-

吉岡彌生を否定しきれない—女言葉の一世紀 144」の続きです。

 

 

 

吉岡彌生は筋金入り

 

vivanon_sentence良妻賢母主義を嫌い、個人主義、自由主義を嫌った吉岡彌生は見事に時流に乗った人だったと言えます。しかし、時流に乗って社会に媚びたわけではないのが凡庸な女流教育家や婦人運動家と一線を画すところです。

彼女がまとめる婦人運動の流れを見てもそう思えます。

 

 

明治三十七、八年の日露戦争があり、国力はますます増強されて国威は世界に宣揚され、国民生活また向上し文化水準も非常に高まりました。さらに大正年間に入ると間もなく世界大戦が勃発して我が国も遂に参戦し、これまた大勝利を得まして人文ともに進みましたが、この頃になると婦人もいちじるしく自覚の度を高め、ありとあらゆる部面で男性と差のない活動ぶりを示してをりました。それでもなお且つ婦人の地位は低きものがあり、これを慨嘆する声は相当高く、殊に婦人運動なども漸くさかんになりつつある時分でしたから、新しい意味での婦人問題がしきりに論ぜられてゐました。(略)

大正三年から七年までつづいた世界大戦の間に、さらにその後の経済的変動期を経て、我が国は政治、経済、文化のあらゆる面に非常な発展と躍進につぐ躍進がなされ、婦人もまたその経済生活の伸張につれて、文化面にも目覚ましき発展と向上を見るにいたりました。そして様々な変化と曲折があったのち、我国の婦人界は従来の行きすぎた欧化思想や個人主義的自由主義が漸次清算されて、よく外国文化を摂取調和して、日本固有の伝統を主軸とした新しい婦道の建設に邁進すやうになり、つひには今日の如き世界史上稀に見る大東亜建設の歴史的偉業の完遂に参加し、日本婦人の優れた才力を世界に顕示するまでにいたりました。

 

 

大げさすぎようかと思いますが、これもまた大本営方式ということで。

ここまでは、いかに女は虐げられてきたのかの話が続いていて、それが明治に入ってから徐々に改善され、社会進出が実現し、発言する女たちも増え、という展開になっていったわけですが、その背景にあったのは戦争なのだという主張です。

これは妄言だと葬ることができないものを含んでいます。海老原嗣生著『女子のキャリア』が社会を変えてきたのは理念ではなく経済の要請であったと主張していたことに通じます。理念が実現されたのではなく、国家の必要性に応じて女の社会進出が実現していったのは半ば、あるいはそれ以上に事実です。少なくともこの国においては発言力を持つ女たちは社会進出に積極的な層より、消極的、否定的な層の方が多く、それを越えて社会進出が実現したのは需要が増大したためでした。

我国の婦人界は従来の行きすぎた欧化思想や個人主義的自由主義が漸次清算されて」とあるのは、管野スガ、伊藤野枝を筆頭に主義者寄りの運動家は処刑、虐殺され、あるいは転向し、婦人運動家たちも自分と同じ国家主義の立場を選ぶようになったことを指すのでしょう。「清算」という言葉に「死」を含めているだろうところに吉岡彌生の冷酷さを見ますが、悔しいことに、戦争に至る前に、個人主義者たちの抵抗は男も女も完全に潰されたことはどうにも否定できない事実です。

大逆事件、関東大震災での虐殺、それに対するギロチン社の報復戦で多数「清算」され、治安維持法、出版条例で手足をもがれてしまいました。

吉岡彌生の分析は「なぜ市川房枝、山高しげり、奥むめおら、婦人活動家たちは雪崩を打って戦争礼讃へと突き進んだのか」の疑問にひとつの解釈を与えます。理念を持つ人々が清算され、理念なき運動家たちが主導権を握り、国家主義の理念を持つ吉岡彌生に従ったからではないか。そのことを確認していきましょう。

※写真は東京女子医学専門学校編『東京女子医学専門学校一覧』(昭和十二)より附属病院

 

 

婦選運動と吉岡彌生

 

vivanon_sentenceすでに見たように、大正時代に吉岡彌生は嘉悦孝子の誘いで「花の日会」に参加し、ここから保守系の婦人運動に関わるようになり、婦選運動と関わった人々との交流が始まっていきます。

平塚らいてうと市川房枝、奥むめおらによって結成された新婦人協会(1919年・大正八年)を与謝野晶子が批判したことは以前書いた通り。この批判は、それ以前の母性保護論争の対立がそのまま持ち込まれたものと見ていいでしょう。平塚らいてうや山田わかは、エレン・ケイが主張していた離婚の自由という個人の権利の部分を消し去って、国家の庇護を求めました。ここから婦人運動と国家主義との接点が始まっていきます。

この延長で家庭内の問題の解決を国家に求めた新婦人協会を与謝野晶子は批判しました。矯風会と並べて批判したのですから、与謝野晶子はこの時点で平塚らいてうらを見切ったと言っていいでしょうし、与謝野晶子のこの批判は、婦人運動が国家主義へと傾き、大政翼賛に向っていくその後の展開を見据えていたものとも言い得ます。

1921年(大正十)、矯風会のガントレット恒、久布白落実らによる日本婦人参政権協会(のちの日本基督教婦人参政権協会)が婦人参政権運動を展開していきます。これを受けて各団体の大同団結が図られ、1923年(大正十二)、婦人参政同盟(日本婦人協会)、翌年、婦人参政権獲得期成同盟会(のちに婦選獲得同盟と改称)が結成されるなど、この時期めまぐるしく団体が結成され、改編されていきます。

 

 

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