松沢呉一のビバノン・ライフ

キリスト教教育と「新しい女」の対立—伊藤野枝と神近市子[8]-[ビバノン循環湯 466] (松沢呉一) -4,301文字-

平塚らいてうは見抜いていた宗教的偽善者・神近市子—伊藤野枝と神近市子[7]」の続きです。

 

 

 

化粧が厚く、派手だった神近市子

 

vivanon_sentence青鞜社社員をやめ、青森に行ってから、平塚らいてうと神近市子はほとんど会ってなかったようですが、この年(「日蔭茶屋事件」があった年)、出産した平塚らいてうの四谷の家を神近市子が訪ねています。

その時の神近市子の様子。

 

 

彼女は職業上の必要からか以前よりも却て派手な風をして居ました。半襟には赤い色が見えて居ました。顔のお白粉も濃くなって居ました。

 

 

色つき、柄つきの半襟は当時としては珍しくなく、絵葉書を見ればわかるように、そこにオシャレのポイントがあったのですけど、「却って」というのは、「ずいぶん年齢を重ねているのに、若い頃よりも派手」ということでしょう。この時、神近市子は満で二七歳です。独身とは言えども、赤の半襟は派手すぎるってことかと思います。

「職業上の必要からか」と書いておりますが、平塚らいてうには新聞記者の知り合いもいたはずですから、「か」をつけることで、「知っている範囲ではそういうことはないけれど」と示唆しています。平塚らいてう以外でも、神近市子が派手だったことを指摘していた人がいて、「新聞記者だから」ではないのだと思います。こぎれいな格好をする必要はあっても、今だって派手で化粧の厚い新聞記者は稀でしょう。

この時、神近市子は大杉栄との関係をほのめかしていますが、平塚らいてうがはっきりとその関係を知ったのはそのあとのことです。

束縛から逃れて自由になりたい。しかし、温い世界から脱出するのも怖い。その切り裂かれたふたつの人格が神近市子を突き動かしていました。

※一九一四年(大正三)の青鞜社の集い。ここから借りました。一番右が平塚らいてう。この前年まで神近市子は青鞜社の社員。平塚らいてうを筆頭におおむね経済的余裕のある家庭に育ったお嬢様たちですから、お上品ですわね。

 

 

見え隠れするキリスト教教育と新しい女の対立

 

vivanon_sentence前回見たように、大杉栄を刺した殺人未遂犯・神近市子に同情する平塚らいてうでさえも、神近市子に対しては、嫌悪感、不信感と言っていいような印象を抱いていました。遠慮のある書き方ながら、「宗教的偽善者である」と。

ここまで書いているのは、もともと「神近市子は変」という思いがあり、大杉栄とくっついたことで「ああ、やっぱり」という納得があって、事件に関して同情はしても、それまでも好意を抱いたことはなかったのだろうと思います

平塚らいてうの言う「基督教的教育」は、具体的には津田女子英学塾であり、津田梅子です。良妻賢母を嫌っていた津田梅子ですが、その代わりに信奉していたのはキリスト教であり、生徒を抑圧する存在であったことには違いがなく、図らずも、こんなところで「女流教育家vs.新しい女」または「キリスト教道徳vs.新しい女」という構図を見ることになりました。

女言葉の一世紀」で繰り返し見てきた通り、女の社会進出に反対し、婦人参政権にも反対するような女学校の教育家たちは、当然のごとく「新しい女」を嫌悪し、警戒してました。そのことを踏まえて、神近市子の姿勢に対する平塚らいてうの評価がありました。津田梅子は良妻賢母の女学校を嫌っていたのですが、「新しい女」に対する敵意は女学校の女流教育家と同じです。

この狭間で揺れ動いていたのが神近市子ですし、そこに物足りなさを感じていたのが平塚らいてうです。

神近市子は宗教的抑圧から抜け出そうとして、反動で暴走をする。しかし、その熱狂が冷めると、もとの温い世界に戻って悔いて、他者を不愉快にする。その欲望の強さを自覚しているがゆえにさらにまた抑圧を強め、これが次の反動のバネになる。

揺れ方は違っていても、この不自由と自由の間で揺れる女たちを見てきていた平塚らいてうはそこまで見抜いたのに対して、大杉栄はあまりに鈍感でした。

神近市子の生き様は矯風会初代会頭の矢島楫子と重なります。肉欲に走った末に不倫の子を生んだ矢嶋楫子はそのことを死ぬ直前まで隠して、虚偽の人生を送りました。前回見たように、神近市子も自分の恥を隠すタイプの人でしたが、殺人未遂をやらかしたとあっては隠しようもなく、そのことを晒しつつ、戦後は性行動、性表現の規制に躍起となります。そうするしかなかったとは言え、矢島楫子よりも清々しい。

※津田塾大学デジタルアーカイブより学生ホール(1940)

 

 

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