松沢呉一のビバノン・ライフ

クリスチャンにして社会主義者—安部磯雄の信仰と社会主義[1](松沢呉一)

万事を通じて自由であることが理想—実業家にして社会改革論者・秋守常太郎[下]」や「天民が大嫌いな救世軍の婦人ホームを礼讃した理由—松崎天民が見た私娼の現実[4]」からゆるくつながってます。あちらで説明したように、2年以上前に書いたものが元になってまして、もともとナチスについて少しは書いていたのですが、今回大幅に加筆しています。

 

 

 

安部磯雄の自伝を読む

 

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廃娼派の牙城・廓清会の会長であった安部磯雄もまた救世軍や矯風会同様、禁酒法賛成派であった。

安部磯雄は「ビバノン」には何度か登場しているが、早大教授にして野球部の初代部長であり、野球部を引き連れて渡米し、初の日米試合を実現したことがよく知られる。また、日本で初めて社会主義者と名乗った人物との説もあり、社会主義研究会(のちの社会主義協会)、フェビアン協会、社会民主党などの創設に関与し、平民新聞の顧問でもあった。

つまりはゴリゴリの左翼なのだが、同時にゴリゴリのクリスチャンでもあって、岡山県で四年間、牧師をやっていたこともある(牧師になる資格となる按手を受けたのはその最後の時期で、正式にはそれまでは宣教師ということになるらしいが)。

とくに社会主義が勢力を伸ばした明治時代は、クリスチャンの社会主義者は少なくなく、片山潜や幸徳秋水もクリスチャンだ。とくに片山潜は米国の神学校に学んで社会主義者になった点で安部磯雄と近いコースを辿っている。なお、片山潜は大杉栄とともに市電ストライキに関わる赤旗事件で逮捕されていて、この時代にはアナキストもボリシェヴィキも、キリスト教も無神論も渾然としている。

信仰が直接社会主義の考え方につながっていることもあろうし、そこは切断されていることもあろうが、安部磯雄はどうだったんだろうと思って、自伝である『社会主義者となるまで』(昭和七年)を読んでみた。

この本は自叙伝とあっても、タイトル通り、社会主義者になるまでに絞って書いたもので、本の8割は社会主義とはまったく関係がなく、クリスチャンとしての生き様を書いたもの。最後の50ページくらいでやっと本題になる。

 

 

『社会主義者となるまで』は面白い読物

 

vivanon_sentence以降、私の感想はどちらかと言えば批判的な記述が多くなるので、最初に言っておくが、この本は読物としては大変面白い。平易な文章で書かれているので、中学生の課題図書に推薦したい。

この本の面白さは、明治初期のこの国の混乱とゆるさに裏打ちされていて、安部磯雄の生き方もまたその時代と密着していよう。

以前も「ビバノン」のどこかに書いたと思うが、この時代は戸籍に関する考え方がゆるい。安部という姓は徴兵制から逃れるために、書類上、扶養家族がいる安部家に養子で入ったためについたものでしかなく、安部家とはその前もあとも縁もゆかりもない。この時の安部磯雄は社会主義者というわけではなく、ただ徴兵がイヤだっただけ。

今だったら叩かれそうだが、これを著書に堂々と書いているのだから、おおらかな時代である。徴兵制に対してもおおらか、戸籍に対してもおおらかだ。

片山潜も同じで、片山という姓は徴兵逃れのためのものだ。戸籍制度において、華族、士族といった別はありながら、平民の間では家の意味なんてなく、そこに固執するような考えがなかったのではなかろうか。徴兵逃れのためだけでなく、戦前の人たちは生家と姓が違うことがよくあって、広く戸籍に執着するようになったのは、戸籍上、国民すべてが平等になった戦後のことかもしれない。

安部磯雄が入学した同志社(当時は同志社英学校)は新島襄の私塾でしかなかったのだが、それでも学びたい欲求で人が集まる。ここでの仏教徒たちとの演説会でのバトルの様子は手に汗握る、ヒトラーが『我が闘争』で活写する、左翼とナチスの演説会での野次や妨害合戦を想起させる(と書くと決して褒めているとは思えないだろうが、『我が闘争』も読物としては面白い箇所が多々ある)。

同志社では同志社女学校の女生徒ととともに授業を受けることが行われていたが、政府の横槍が入って中止になっている。米国型教育の実践は早くも明治十年代には試みられていたのだ。教育者たちが一丸となって闘えればよかったのだろうが、女学校がこれに同調するとは思えず。

とくに同志社だからだろうが、同級生たちは次々と米国やドイツに留学していて、海外に出ることの敷居が今とそうは変わらないのではないかとも思える。米国留学先では、近くに『アンクル・トムの小屋』の著者であるストウ夫人が住んでいて、老化のためか精神を病んでいたらしく、付添人とともに散歩をしている際に、奇声を発しているところを見かけている。

そういった時代に成立したものとして、読みどころ満載であることをまず確認。

※Googleストリートビューより同志社大学ハリス理化学館。1890年に建てられたものなので、安部磯雄がいた時代よりちょっとあと。

 

 

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