松沢呉一のビバノン・ライフ

禁酒・禁煙・優生思想、それってナチスでは?—安部磯雄の信仰と社会主義[3](松沢呉一)

エドワード・ベラミー著『百年後の社会』をどう読むか—安部磯雄の信仰と社会主義[2]」の続きです。

 

 

 

安部磯雄と救世軍の関係

 

vivanon_sentenceエドワード・ベラミー著「Looking Backward」を読んで社会主義者になった安部磯雄が禁酒法にも賛成していたのも、廓清会の会長をやったのも納得しやすい。

酒に関しては、父親は飲まなかったのだが、祖父母や義理の兄が酒が好きで、自分を同志社に行かせてくれた義兄はやがて放蕩で身を滅ぼしている。

同志社は禁酒・禁煙・禁劇と校則で決まっていた。禁劇は観劇禁止のこと。芝居は不良化の原因になるからだろう。映画が登場するまではなにかにつけ悪者とされていたのだ。

それでも学生たちはこっそり観に行き、時には酒を飲んで芸者を呼んだりしていたが、安部磯雄はそれを不快に感じていた。

1886年(明治十九年)に、禁酒運動家のレビット夫人が来日しており、安部磯雄はこの人の通訳をやっている。

自伝では簡単な記述しかなされていないが、メアリー・グリーンリーフ・クレメント・レビット(Mary Greenleaf Clement Leavitt)は、婦人キリスト教禁酒協会(WCTU/the Woman’s Christian Temperance Union)の創設者の一人であり、酒を筆頭に煙草や婚姻外セックスなどにも反対した禁酒運動の指導者であった。その考えを広げるため、教会の宣教師として世界各国を回り、その来日は矢島楫子が婦人矯風会を創立するきっかけにもなっている。

日本の婦人矯風会はこのWCTUの日本版である。temperanceは「禁酒」という意味とともに「節度」「節制」という意味があって、この後者の意味を「矯風」としたわけだ。矯風会は人権に則って売春に反対しているのでなく、宗教的道徳に則って、一夫一婦制からはずれるセックスを否定しているのである。

おそらくこの頃から安部磯雄は矯風会との接点があったのだろう。

また、米国のハートフォード神学校でも禁酒・禁煙だったが、観劇は禁止されておらず、学生たちは好んで観劇に出かけて行った。しかし、安部磯雄は行かず。

米国のあとベルリン大学に留学しているのだが、その際にロンドンに立ち寄っていて、この時に救世軍の活動を見て回っており、救世軍の創設者ウィリアム・ブース大将とも会っている。社会事業、窮民救済に共感したのだろうが、この時の関係から、日本の救世軍とも連携していて、ウィリアム・ブース来日にも関わっている。矯風会より、救世軍との関係から、禁酒法に賛成し、廓清会の会長になったのだろうと推測できる。おそらくは人間関係、あるいは宗教つながりを優先したのだろうと思う。

なお、救世軍の売春反対も矯風会とまったく同じく宗教的道徳に基づくものであり、いまも同性愛に反対する団体として批判されており、社会鍋に寄付することをやめようとの呼びかけがなされていることは知っておいていいだろう。

※写真はウィリアム・ブース。Wikipediaより

 

 

安部磯雄に見られる優生思想

 

vivanon_sentence安部磯雄は山本宣治らとともに産児制限運動にも関与したことで知られる。産児制限賛成だった点は多くのクリスチャンやキリスト教団とは違うところであり、救世軍も産児制限には賛成できなかったろう。安部磯雄の社会主義者としての選択だ。しかし、安部磯雄の産児制限論はかなり危うい。

産児制限運動はいくつかの側面を持ち、非戦論者であった安部磯雄は「貧困は人口の増加によってもたらされるものであり、それを抑制することで貧困をなくし、戦争を避ける」という新マルサス主義的な産児制限論者だが、同時に優生思想の影響も強く見てとれる。マーガレット・サンガーの産児制限論にも優生思想の影響はあるのだが、安部磯雄はいっそうそれが露骨である。

 

 

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