『読んでいない本について堂々と語る方法』はフィクションである—本にまつわる権威と幻想[3]-(松沢呉一)
「『読んでいない本について堂々と語る方法』の仕掛け—本にまつわる権威と幻想[2]」の続きです。
脚注のメッセージ
前回見たように、『読んでいない本について堂々と語る方法』の脚注は半ばシャレであって、それ自体、たいした意味はないのですが、わざわざ目立つ形で出したことにはメッセージが込められています。
著者の主張は「読んでいなくてもいいし、読んだふりをしてもいい」ということのはずなのに、ここでは読んでいないことを明示しています。実在していない本は読みようがないのですが、それでも「未」をつけるのは、著者の論理からすると、実在していなくても「読んだ」と言えてしまうからです。
しかし、そのことを公言してしまっては、この本の趣旨に反します。「読んでいない本を読んでいないと言ってはいけない」とまで主張しているわけではないですけど、趣旨を徹底するなら、読んだことにしてもいいはず。
なおかつ、あの脚注では、「流し読み」にせよ、著者がムチャクチャ本を読んでいることも明示されています。そりゃ、読んでないと、この本は書けるはずがないのです。話が違います。
著者は本書の冒頭で「私自身、本を読むことがそれほど好きではない」と書いていますし、他のところでもそう繰り返しています。
しかし、本を読むことがそれほど好きではない人がこうも読んでいるとは思えない。「好き」という言葉も幅が広く、ここでは「それほど」がついているので、「連日、寝るのも惜しまず読むほどは好きではない」とか「命を失っても読みたい本があるほどは好きではない」とか、いくらでも言いようはありますけど、一般的に言えば「本を読むことがそれほど好きではない」とする人は、あまり本を読むまい。
著者がどういう人か知っている人がこれを読めば、しょっぱなから、この本がどういうものかわかるようになっています。著者のことを知らなくても、この冒頭の一文と、脚注を照らせばわかる。
つまり、本の冒頭で「この本はフィクションです。実在の人物や団体とは一切関係ありません」という注意書きを示しているのです。
脚注はシャレでありつつ、本文との関係はメタであり、本書を書いたピエール・バイヤールがフィクションから離れて脚注を書いています。脚注を書いているのが素のピエール・バイヤールです。「多数の本を読んで、自身が触れる書物にはおおむね目を通し、そうすべきものは熟読し、読んでないものは読んでいないと明言するピエール・バイヤール」が、半ばフィクションとして書いたのが『読んでいない本について堂々と語る方法』です(脚注で書いていることが事実通りなのかどうかって問題もさらにあるわけですけど)。
※Giovanni Cattini「Plate 8: Man in a hat reading a book with a magnifying glass」
「私」とバイヤールは同一人物ではない
現実のピエール・バイヤールは多数の本を読み、論ずる以上はその対象を読むのは当然だと思っているに違いないことを脚注を並べることで確信しました。
「翻訳者(大浦康介)あとがき」でも「バイヤールはここで自身ある人物を演じているのである」と書いています。「ここまで説明するのは野暮というものだが、こうした事情は翻訳では伝わりにくいと思われるので、野暮を承知で説明する」とも書き添えていますが、バイヤールに対してまったくの知識がない私でもこれには気づいたので、相応に注意深く本を読む人であればわかるでしょう。
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