今こそ歴史を語りたい—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[序章]-(松沢呉一)
廃娼編「日本民族の恥だから売春する女を許せなかった久布白落実—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ」〜
禁酒編「矯風会の始まりは婦人禁酒会—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ」〜
婦人参政権編「矯風会が婦人参政権を求めたのは男女平等が目的ではなかった」
大政翼賛編「ファシズム団体としての矯風会—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ」〜
矯風会はフェミニズムか? 矯風会がフェミニズムに見えるフェミニストは本当にフェミニストなのか?
ここ数ヶ月の「ビバノンライフ」を見ていただけるとおわかりのように、国外のことや過去のことにばかりに意識が向って、今現在の日本にあんまり興味がありませんでした。街を見て回ることを欠かさずやっていたのが例外。
そのため、ちゃんと見てないんですけど、SWASHの要友紀子は最近大活躍のようでなによりです。つきあいの長い私としても嬉しい。でも、どこで何をして大活躍しているのかあんまりわかってない(ひどい)。
これも見てないんですけど、彼女がどっかでリンクをしてくれて、このところ、矯風会関連の記事のアクセスが増えてました。彼女は矯風会をフェミニズムに位置づけようとするバカげた人たちを相手にしていたようです。
矯風会についてはリアルタイムに書かれたものを調べていないことによるものであろう浅薄な評価が目につくことがあります。道徳団体がフェミニズムに見えてしまう。
田嶋陽子の神近市子の評価でもそれを感じました(「大杉栄を殺そうとしたことが痛快だとさ—宗教的偽善者・神近市子を評価する田嶋陽子[上]」「同情に値するのは堀保子だけ—宗教的偽善者・神近市子を評価する田嶋陽子[中]」「所詮フェミニスト・タレントでしかなかった—宗教的偽善者・神近市子を評価する田嶋陽子[下]」参照)。
平塚らいてうによる「宗教的偽善者」という神近市子評が私には正しいと思えますが、なぜ田嶋陽子には家庭と道徳の守護者たる神近市子がフェミニストに見えるのか。
神近市子について、日蔭茶屋事件について、大杉栄や伊藤野枝について調べが足りないがゆえに神近市子を肯定できるのではないかと疑っています。そんなことまでわからんでも、ただの道徳主義者であることは明らかだと思いますけどね。
また、神近市子が卒業したということから、津田塾大に田嶋陽子が入学した意味が私にはさっぱりわからんです。津田梅子は、神近市子が「青鞜」に関わったことで悪魔呼ばわりして、放校しようとしたのですよ。神近市子が「青鞜」から離れることで放校は免れたわけですが、これさえも調べていなかったのでありましょうか。高校生ならあり得るとして、今もそう言い続けているのはどういうことかと。田嶋陽子は「青鞜」を否定するフェミニストなのか?
このエピソードを知っているフェミニストもいるだろうに、どうして誰も注意しないのかもわからない。
なお、田嶋陽子のシリーズはもっと続ける予定だったのですが、読む人がほとんどいなくなったので、もういいかと思って打ち切りました。最初からいつ終ってもいいものとして始めたものですから。ただ、もうできていた回で出しておいた方がいいと思うのがあるので、そのうち出すかも。
※津田梅子著『女子大正りーだず. 第4巻』(大正5年) 読んでおきたい人ではあるんですけど、津田梅子は通常言うところの単著が一冊も見当たらず。ここに出したのは英語の教科書です。さすがにこれは私も読んでません。
国家主義・民族主義・全体主義が強まるこの時代だからこそ
田嶋陽子に限らず、この辺の歴史についてしっかり把握できている人は少ないだろうと思います。フェミニズムに興味のない人はそれでいいとして、前からずっと言っているように、フェミニストと名乗るんだったら、エロライターの私程度には日本の婦人運動史を知っておいてしかるべきです。その作業をさぼっているから、フェミニズムと道徳、フェミニズムとファシズムの区別がつかなくなってしまうのです。
ここ数ヶ月見てきたように、コロナ禍によって国家主義、民族主義、排外主義の動きが世界的に強まっています。日本では、マスクを強制されて、従わないと逮捕されるようなことは幸いなかったわけですけど、「強い政府による強い対策」を求める人々はいたるところでわき上がってました。
もともと日本は個人主義が薄い国、あるいはない国ですから、第二次世界大戦時のようにズルズルと全体主義的な動きが支配していくのではないかとの怖さがあります。
日本ではコロナ禍以前から、個人主義を基盤にしたフェミニズム(これこそがフェミニズムというのが私の理解です)が力を持てず、道徳的な「フェミニズム」、差異主義「フェミニズム」が力を持ち、さらにはファシズムと手を組む矯風会までがフェミニズムとされる風潮が強まってきているように思えます。
そのどこがどうおかしいのかを見ていくことで、個人主義がなぜこの国に必要であるのかを理解していただき、全体主義に対抗する個人主義者をちょっとでも増やしておきたい。
矯風会について書いていた段階ではナチスにまだ詳しくなくて、ナチス没頭シーズンを経た今、そのことを踏まえて「ファシズムはフェミニズムならず」という定義を改めて確認し、矯風会は少なくともある時期、あるいは設立から現在に至るまで「宗教ファシズム」とすべき団体であることをはっきりさせていきます。
※Wikipediaよりムッソリーニとヒトラー
(残り 1300文字/全文: 3571文字)
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