吉岡彌生の婦人参政権運動はフェミニズムか?—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[大政翼賛編 2]-(松沢呉一)
「ファシズム団体としての矯風会—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[大政翼賛編 1]」の続きです。
全体主義としての婦人参政権は吉岡彌生が象徴する
戦時体制下の婦人運動家たちは、戦争を女たちが力を発揮出来る好機ととらえて、その機会を利用した側面もあるのですが、同時に彼女ら自身、もともとファシストだったのではないか、少なくともそこに共振する考え方だったのではないかとの疑いを私は抱いています。
なぜこの流れに平塚らいてうは乗っていないのか。元「若い燕」とともに千葉だったかどっかに引っ込んでいたという事情もあるのですけど、思想的に彼女はここには乗れなかったのだろうと思います。与謝野晶子も同様。それが女の活躍の場を拡大することになるとしても、そんなものには賛同しない。
対して、大政翼賛に協力した人たちは「もともと全体主義を志向する人たちだった」と思い始めたのは、東京女子医大の創設者、吉岡彌生の著書を読んだのがきっかけです。
全体主義としての婦人参政権、全体主義としての婦人の社会進出という考え方は、吉岡彌生によってかなりまでクリアになります。
ともあれ、「婦人参政権に賛成したのはすべてフェミニズムである」という定義を持ち込んで、矯風会がフェミニズム団体だと言い張るのだとすると、いっそう吉岡彌生はフェミニストになります。
ある時期においては婦人参政権運動を主導していた人物であり、ガントレット恒や市川房枝らとともに活動し、より重要な役割を果たしていますから、日本のフェミニズムにとっては欠くことができない存在のはずなのです。
婦人参政権の歴史の中では名前が出てきますが、フェミニズムの歴史の中ではあまり名前は見ません。当然です。フェミニストではありませんから。あるいはフェミニストだと思いながら、この人を出すとあまりに都合が悪いので、触れないだけなのか? 御都合主義。
※国民精神総動員本部編『国民精神総動員運動』(昭和15年)より昭和13年の記述。ここに参加したからと言って、必ずしも積極的に国民精神総動員運動に積極的だったとは言えず、おつきあいで参加した人もいるでしょうが、矯風会は積極的です。この本の他の箇所にも名前が出てきて、この手のものには欠かさず参加していたようで、愛国婦人会、国防婦人会と歩調を合わせていくさまが見てとれます。ガントレット恒(子)、吉岡彌生、金子(山高)しげり、市川房枝ら、婦人参政権運動から流れた人々の名があります(市川房枝は後ろの方に市川として出ています)。他に羽仁もと子、三輪田繁子ら、教育関係者の名も見えます。学校の場合は国家総動員に協力しないということで潰されかねなかったでしょうから、イヤイヤだったかもしれないけれど。
「新しい女」を否定しきった吉岡彌生
吉岡彌生は英米的な男女同権論を完全否定しています。「青鞜」から始まる「新しい女」にはまるで価値を認めず、平塚らいてうを名指してはいないながら、そうとわかるようにした上で、ばっさりと切り捨てています。
それでも吉岡彌生は婦人参政権を実現しようと尽力しました。彼女の論理からするとそうなるのであり、矛盾はありません。
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