個人主義でいきましょう—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[大政翼賛編 5](最終回)-(松沢呉一)
「社会衛生運動と優生思想—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[大政翼賛編 4]」の続きです。
なぜGHQは矯風会を解散させなかったのか
ここまで見てきたように、矯風会は、宗教道徳と全体主義が合体した団体です。全体主義なんて意識はないかもしれないですが、酒や売春を法で禁じて異物をはじけば世の中がよくなるという糞ガキみたいな発想は全体主義そのものであり、そこには自分たちと違う考えや個人の意思を認める余地はない。同じ神を信じる者たちの間だけで楽しくやっとけ。信仰しない人に宗教規範を押しつけるな。
日本が負けた段階で、積極的に軍部に協力し、大政翼賛に大いに尽力してきた矯風会は解体させられるべき団体でした。ともに活動してきた市川房枝や吉岡彌生が公職追放処分を受けたように(吉岡彌生は教職追放も)。しかし、そうならなかったのはキリスト教の団体という一点からだったろうと思われます。
ナチスドイツにおいて、エホバの証人や告白教会のような例はあるとは言え、キリスト教団体が足並み揃えてナチスと闘ったわけではなく、ナチスの協力者、支持者となった聖職者も多かったにもかかわらず、戦後のドイツにおいて脱ナチス化の役割を期待されたのはキリスト教でした。
日本においてもGHQの中にキリスト教である以上は日本の軍国主義と対峙するものという誤解や日本復興においてキリスト教への期待があったんだろうと思います。また、矯風会のもとになった婦人キリスト教禁酒協会あるいはほかの米国のプロテスタント勢力からの要請があったのかもしれない(証拠はないですが、その可能性は十分あります)。
それが矯風会の責任を曖昧にします。「一言も戦争反対の声を挙げ得なかった」と、子ども騙しのガントレット恒の反省の弁(というより、初代会頭以来の矯風会らしいごまかしに満ちた文)で済ませてしまいました。そして、いまやこの団体をフェミニズムの歴史に入れる痴れ者が出てきています。
※英語版Wikipediaよりムッソリーニとヒトラー
敗戦後のドイツにはキリスト教が必要だったが、日本に矯風会は不要
話が本論からずれますが、ナチスに対するカトリックの責任について補足しておきます。ちょっと前に知って、「加筆しなきゃ」と思っていたものですから。
「ドイツ人とキリスト教のあまりに強いつながり—バラの色は白だけではない[5]」に、カトリック政党であるドイツ中央党(Deutsche Zentrumspartei)がナチスの全権委任法に賛成したのは、ライヒスコンコルダート締結の情報をつかんでいたためではないかと書きましたが、大澤武男著『ユダヤ人 最後の楽園』によると、そんな消極的な話ではありませんでした。
前首相であり、党首だったハインリヒ・ブリューニング(Heinrich Brüning)は、ナチスとの連立を容認していますから、その責任はあるにせよ、全権委任法については反対し、ナチスと最後まで闘う姿勢を見せていました。しかし、党内にナチス党員になったのが多数いて、党の規約に従って全権委任法に賛成票を投じ、翌年、ブリューニングはドイツから脱出しています。
ブリューニング個人は別として、党としては積極的にナチス独裁を支持したのです。
これがなければナチス独裁は成立しませんでした。よってそれ以降のナチスドイツはなかったかもしれず、ホロコーストもなかったかもしれないのですから、中央党の責任、カトリックの責任はあまりに大きく、たんなる傍観者ではありませんでした。
ナチス独裁政権樹立の決定的な役割を果たしたのに、戦後カトリックは迫害された被害者としてふるまいました。迫害された被害者の側面もあったにせよ、反共にもヴァイマル共和国の自由に対する抑止にもユダヤ追放にも賛成して、ナチス協力者であらんとしたら、ナチスに裏切られてひどい目に遭ったって話であって、なのに、ただ被害者かのように振る舞うのは典型的な犠牲者化と言っていい。泣きながら「一言も戦争反対の声を挙げ得なかった」なんてことを言っておけば許されてしまうのです。
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