松沢呉一のビバノン・ライフ

かくして詐称やハッタリは生き続ける—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[13](最終回)-(松沢呉一)

自分の歴史も改竄しようとした—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[12]」の続きです。

 

 

 

一度広がったものを回収することは難しい

 

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印籠の効力が薄れるまでに半世紀かかりました。

いまなお出版されている国もありながら、そろそろイェヒエル・デ・ヌールの本を読む人が少なくなり、研究者や批評家の世代交替もなされて、やっと「こんなことはあり得ない」「日記は存在しない」「妹は実在しなかった」「『痛ましきダニエラ』はポルノである」「『痛ましきダニエラ』はナチス・ポルノのひな形を作り出した」とはっきり指摘できるようになり、それがある程度は受け入れられるようにもなりました。

もしこれらの指摘が、イスラエル以外の国でなされたら、なお封殺されていたかもしれない。「ネオナチだ」「歴史修正主義者だ」でおしまい。しかし、イスラエル国内での指摘ではそうも言えない。批判は近い人々からなされるのが好ましい。

しかし、「よかった、よかった」では終わらない。

Stalags—Holocaust and Pornography in Israel」のレビューを見ると酷評もされていて、映画の出来がよくないってことかもしれないけれど、なお『痛ましきダニエラ』の価値を貶めるような批評は許さない人たちがいるのではなかろうか。研究者でも、『痛ましきダニエラ』をポルノとしたり、ポルノとの関連を強調したりすることに反発している人もいるようです。

そりゃ、イェヒエル・デ・ヌールの作品をホロコースト文学の嚆矢として評価して今の地位を築いたような研究者や批評家たちはおいそれとは認められないでしょう。日記は存在しない、妹も存在しない、記述はおかしなことだらけであっても、文学として優れているという評価は可能ですから、事実は事実として受け入れればいいだけのことですが、「収容所経験者が事実を描いた」といった評価をしてきた人たちは受け入れられない。

それらの人々もそのうち消えていきますが、それと同時にイェヒエル・デ・ヌールの存在も忘れられていきますから、訂正が十分になされる機会は永遠に失われてしまったかもしれない。

誤解はすでに浸透していて、「実在した少女の実在した日記をもとにした実話小説」としてこの小説は定着して、たまたま図書館や古本で読んで実話だと思う人たちは今後も出続けます。

今もそういうレビューが各国語で出ていて、これらのレビューは「ドイツ兵を相手にした売春施設があり、時には乱交パーティが行なわれていた」という創作を事実として扱うものです。歴史の改竄、歴史の創作に手を貸しています。

場合によっては歴史的事実としてこの中の記述を扱っている歴史の本もありそうです。あんまりいないとは思いますが、チープな歴史家でも事実として記述している例があるかもしれない。

米版の初版。英版とは別です。

 

 

なぜイェヒエル・デ・ヌールの虚構は悪質なのか

 

vivanon_sentenceさらにはぼんやりとした記憶として、一人一人の中に蓄積されたものや間接的に蓄積されてしまったものがあります。

この小説に出てくるサディストの女親衛隊のイメージがポルノに発展していきますが、これが今度はイルマ・グレーゼイルゼ・コッホのイメージにフィードバックされていき、これらの人々を知る人々の多くは「女サディスト」としてとらえているはずです。裁判の時点でもそうですけど、さらに強化されて、その存在を知らしめていきます。

私はそういったノイズを排して証言を検討した時に、サディストと言えるような人たちだったのか、そもそも死刑や終身刑に値するようなことをしたのか否かについて大いに疑問を抱いているのですが、いくら私が指摘したところで、拡散されたイメージは覆らない。

ナチスのホロコーストは動かせない事実。よって「ナチスの非道を訴える方向であれば、ウソが混じっていてもいいではないか」「ナチスは強制収容所内で売春施設を設置したのは事実なのだから、ユダヤ人がドイツ兵の相手をしたことにしてもいいではないか」という意見があることは容易に想像できます。

しかし、この考えは完全に間違っています。こういう発想をする人たちはナチスのホロコーストがなぜ起きたのかをなお理解していない。

ナチスは決してユダヤ人を人として扱いませんでした。戦時に勝者が敗者の女たちを強姦することはしばしば見られるわけですが、例外はあるとしても、ナチスがユダヤ人に対して、あるいは東部戦線で大規模にそんなことをした記録はない。派手に強姦を繰り返したのは赤軍です。

ナチスドイツの軍隊は規律正しく、赤軍は訓練されていない有象無象の集まりと言いたいのではなくて(そういう側面もあったわけですが)、ナチスはセックスの対象としてユダヤ人やスラブ人をとらえたのでなく、ただ殺す対象としてとらえました。ユダヤ人はただの害虫であり、劣等なスラブ人も抹殺し、残ったのは家畜化するつもりだったのです。豚やゴキブリを強姦しようとするヤツはいない。

 

 

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