もっとも深刻なのは表現者自身が表現を潰すこと—自己検閲の仕組み[予告編 2]-(松沢呉一)
「全米反検閲連盟『芸術の自由マニュアル/芸術の検閲マニュアル』—自己検閲の仕組み[予告編 1]」の続きです。
自主規制から自己検閲へ
「芸術の自由マニュアル」の最終章は自己検閲です。
南アフリカの作家J・M・クッツェーは、かつてこのように述べました。「検閲は作家が自らを検閲するようになり、検閲者自身は仕事をしなくても済むようになる日の到来を待ち望んでいる」と。
ギャラリーや美術館、放送局や出版社が外から抗議される前に表現を規制する「自主規制」が進むと、美術家や放送作家、出演者、書き手自身が自ら規制されるような表現をしないようになっていきます。
「萎縮効果」であり、これについては「言葉狩り」を例にして、「ビバノン」で何度か見てきています(「消える「部落」—オールロマンス事件から言葉狩りまで[上]」「「言葉狩り」を正しく使うべし—心の内務省を抑えろ[3]」など)。
これはもっとも厄介な「検閲」です。他者には察知されないところで進行していきますし、善意の人々が「そんなことを書くと炎上するよ」といったように、その内容ではなく、批判されることをもって他者の表現を抑制してきます。注意した方がいいケースももちろんあるのだけれど、表現を潰したい側の代弁者になっていないのかどうかを自己検証する姿勢が欲しい。
※J.M.クッツェー著『恥辱』 クッツェーは南ア出身ですが、現在はオーストラリア在住。この本は大学教授が離婚後に学生と性的関係をもってしまって、学生から告発される内容とのこと。だから身近なところでセックスするとロクなことはないんだって。この場合は「そういうことをしていると炎上するよ」と注意した方がいいかと思います。
深刻なのは自己検閲
さらには「なぜこの表現をしてはいけないのか」さえ考えなくなって、予めその発想を封じるようになります。
個々の芸術家による自己検閲は、芸術を展示する施設が行う自主規制よりも深刻な問題です。習慣となっている考え方、自明のものとなっている前提、仲間によく思われたいという願望は、全て想像力に拘束を課し、思考を型枠にはめてしまいます。自由であるためには、他者からの期待に応えるために自らが創り出した型枠を疑問にさらすことが必要かもしれません。我々は往々にして、自ら自分の検閲者となってしまうことがあるからです。
「習慣となっている考え方」「自明のものとなっている前提」「仲間によく思われたいという願望」から完全に逃れられている人はほとんどいないでしょう。私もそこから逃れたいと思いつつ、逃れることはできていません。
表面化しやすく、批判しやすい国家の検閲に対して、自己検閲は他者にはわかりにくく、批判しにくい。内面化していると、本人さえも意識できない。それを第三者が察知できたところで、個人が個人の表現をどうするかに他者は踏み込みにくいので、批判もしにくい。
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