与謝野晶子の女学校批判—平塚らいてうの優生思想[付録編 3]-(松沢呉一)
「与謝野晶子の男女平等論—平塚らいてうの優生思想[付録編 2]」の続きです。
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与謝野晶子の女子教育論
前回見たように、男女は生殖の点以外等しくていいという考え方から、与謝野晶子は女子教育について以下のように述べています。
また私達が性別的思想から解放されて居たら、婦人のみの団体行動、女子のみの学校教育と云ふやうなものは回避しなければならない筈です。人生は男女協同の組合です。教育も男女協同、家庭も社会も政治も男女協同の精神と様式を取るのが正当だと思ひます。この意味から私は婦人会といふものに慊(あきた)らず、婦人を除外した普通選挙を不備として攻撃し、女子のみに家庭の責任を帰して居る賢母良妻主義に反対して居る一人です。
普遍主義からの「女子のみの学校教育」の否定ですから、良妻賢母を筆頭とした旧来の女子教育はもちろんのこと、その存在自体を否定するものと読めます。なのに品川女子学院の校歌に歌詞を提供していたので私は訝しく思ったのです。
私としては過渡的な段階では、偏差値高い系女子校は存在していた方がいいと思っていることはすでに縷々述べた通り。それ以外はいらない。女子医もいらないでしょう。それでもそうしたいのであれば学校の自主、自律として尊重すべきですけど、原則としてなくていいものだと私も思います。
この考えに基づくのが与謝野晶子の婦人参政権の主張であり、矯風会のような道徳の実現のための婦人参政権とはまったく別です。
※The Duncan Sisters, American vaudeville duo who became popular in the 1920s with their act Topsy and Eva. 着色しました。右の2人がThe Duncan Sisters。ダンスや歌で1920年代に舞台で活躍したのち、映画にも出演。映画の一部はYouTubeで観られます。
制服不要論
以下は『女人創造』収録「婦人の要求する自由」より。
日本婦人をこの病的状態(松沢注:家庭および工場の奴隷である状態のこと)から解放することは、先づ社会と家庭との習慣を打破し、あらゆる無用な制限や束縛を撤廃して、婦人を男子と同様の自由な境遇に置くと云ふことで無くてはなりません。この意味で私達は何よりも自由を要求します。教育の自由、外出の自由、交際の自由、読書の自由、職業の自由、思想交換の自由、結婚の自由、参政の自由、是等のものを第一に許さずに於(ママ)いて、私達婦人の本能の円満な開花発揚を期待することは、軌道を敷設せずに置いて俄かに機関車を進めやうとするのと等しい矛盾だと思ひます。
只今の日本で許されて居る自由と称するものは専ら男子の自由です。婦人の人格を養成すべき任務を持つ女学校の教育までが、婦人に向った人並の自由を許さうとする精神をさへ失って居ます。寧ろ婦人の自由を家庭や社会と呼応して抑圧しつつあるものは女学校です。それは女学校の教育が男子の中学に比べて、如何に第二次的の人間を作らうかと云ふことに苦心し、殊更に低級の極まる学科を課して居るのを見ても明かな事実です。
さらには避妊する自由も求めていて、その流れで前々回見た「優生学的節制」が出てきます。制度内にある限り、女学校は「低級の極まる学科を課して居る」ことから逃れられず、制度内にある限り男女別学から逃れられず、だから与謝野晶子が西村伊作らと創立した文化学院は制度の外で設立されました。
同書の「学生の制服」では制服不要論を展開しています。
女学校の制服はこれまで概して一定しなかったのです。何を着ても好かったのです。私は其れを好い事だと思って居ます。然るにら近頃東京の女学校で改良服と云ふ物を作って服装を一定する事が行なはれます。私は中学生の制服に反対するのと同じ理由で之にも反対します。
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