松沢呉一のビバノン・ライフ

同性愛は「同性を愛すること」ではなく「同性とセックスすること/したいこと」[下]-(松沢呉一)

同性愛は「同性を愛すること」ではなく「同性とセックスすること/したいこと」[上]」の続きです。

 

 

重要な判断基準のひとつはオナニー

 

vivanon_sentence前回確認した言葉の経緯からして、「同性愛」は辞書通り、「同性とセックスすること」であり、「同性とセックスをしたいこと」です。純然たる性欲である行為、たとえばオナニーの時に相手はどちらなのかが問われるのであって、精神的な愛情に留まる限りは同性愛ではありません。

「気持ちと体は一致しているのだから、どっちだって一緒じゃないか」と言いたがる人は幸せな人。でも、自分がそうだからって誰もがそうだと思わない方がいいです。

私は「異性・性愛」者。疑いのない異性愛。男でオナニーをしたことは一度もない。しかし、男の裸やチンコを見るのは好き。CAM4でもよく男を観てますけど、それで性的な興奮はない。ただ見て楽しむものです。名山を眺めたり、祭りの山車を鑑賞するのと同じ。ヴィジュアル系チンコ好き

十代の包茎チンコを見ると、「しゃぶりたい」という感情がそこはかとなく湧いてくることもありますが、この「しゃぶりたい」は性欲とはまた違います。かわいいイヌネコを見ると、「抱きしめたい」って感情が湧くのと近いものです。

しかし、「同性・愛」という意味では相当に同性愛。もともとそういうところはあったんですけど、台北で確信しました。台北で一番キュンとしたのは、ゲイの大学生でしたから。笑顔がかわいいの。

台北で、女子に対しては一人としてキュンとせず。街娼のおねえさん方やCOSWASのメンバーはかっこいいと思いましたが、キュンとはしない。どこまでも同志。中国語で「同志」と言うと、同性愛者の意味も出てきてしまいますが、日本語としての同志。

※澤田順次郎著『神秘なる同性愛』(大正九年)  同性愛という言葉は明治時代から使われていますが、国会図書館で検索した範囲で、タイトルに使用されているのはこれがもっとも古い。

 

 

かわいい女子は性欲の対象になりにくい

 

vivanon_sentence女子を「かわいい」と思うこともあるんですけど、性的な欲望と関係のないところでそう思います。

この「かわいい」は男の子に対する「かわいい」とはちょっと違って、この感覚はたぶんゲイが女子に感じる「かわいい」と同じ。こっちは頬を赤らめない感じ。男の子には赤らめる感じ。

もともと私が性的欲望の対象としてかわいいと思う女子のタイプは性欲とは重ならず、「エロい」のとはセックスしたくても、「かわいい」のはセックスの対象にはなりにくい。今はもっとズレていて、女子の「かわいい」は子どもに対する「かわいい」とも違っています。なんだろうな、人としてのかわいさと言いますか。

男子にグッと来る気持ちが強くなったのは性欲が薄くなったからではないかと自分では分析しています。性欲の対象は女子だったため、自分はヘテロと疑いなく信じていたのですが、それが弱まって、もともとあった男子を好きな気持が相対的に浮上してきたのかも。

私は、女たちと友だちや同志にはなれても、また、セックスはできても(最近はこれも怪しい)、恋愛の対象ではなく、性欲の対象でしかなかった可能性が出てきています。もちろん、恋愛感情はありましたが、性欲と混じり合っていたような気もします。

この歳になってもなお自分の性がわからない。わからないのは言葉がないせいかもしれない。性的な対象ではなく、精神的愛情だけを同性に抱くことに対するジャンルとジャンル名が必要だわね。

※澤田順次郎著『神秘なる同性愛』より

 

 

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