血に塗れたハイチの60年—ポストコロナのプロテスト[122]-(松沢呉一)
「「学校に行かせろ」プロテスト—ポストコロナのプロテスト[121]」の続きです。
ハイチの楽園イメージは半世紀以上前のもの
ハイチで激しいプロテストが続いていることはYouTubeで観ていたのですが、ハイチのプロテストは昨日今日のものではなく、始まりはコロナよりずっとずっと前なので、ここまでを整理するのが大変すぎて後回しにしてました。
しかし、スーダンについてはもう少し書いておきたいことがあって、それにからめるならハイチがもっとも適切です。今現在もっとも注目すべきはミャンマーですけど、そっちは日本でも報道されていますから、私の担当である「あまり注目されることのないエリア」としてハイチを見ておきます。ハイチも軍事クーデターが繰り返されている国なので、ミャンマーともつながりますし。
ハイチと言えばカフェ・ハイチのハイチコーヒーとハイチカレーです。ハイチ人がやっているわけではないので、本当にハイチであんなカレーを食べているのかどうか不明ですけど、時々食べに行ってました。新宿本店がなくなって、四谷店もなくなってしまいましたが、そこのスタッフが中野に出しているんですね。行かなきゃ。
カフェ・ハイチのバナー。
ハイチってこういうイメージですよね。カリブの楽園。
一方で、ブードゥー教(Vodou)に基づく呪いや死者の復活も知られていて、うちにもブードゥー教の呪いのロウソクがあったんですけど、どっかに消えました。停電の時に使ったかもしれない。
現実のハイチはそのどちらとも違う荒々しさに満ちてます。
先週のハイチ。
ここに至るまでが長い。全部つながっているので、「今」だけを切り取れないです。以下、それを大急ぎで見ていきますが、うんざりすることを覚悟しておいてください。
フランソワ・デュヴァリエがハイチを楽園から地獄に変えた
1950年、ハイチ初の普通選挙によって選出された、軍出身のポール・マグロワール(Paul Eugène Magloire)大統領はハイチを観光地として発展させます。この時にハイチの楽園イメージが拡散されていきます。
続く1957年、パパ・ドク(Papa Doc)こと、フランソワ・デュヴァリエ(François Duvalier)が大統領になります。医師です。彼は政敵とその支持者を追放し、翌年、それに反発した軍部がクーデターを起こしますが、デュヴァリエはこれを制圧して首謀者を殺害。同年、亡命ハイチ人と米人がデュヴァリエ政権転覆を図って失敗し、彼らも殺害されています。
以降、デュヴァリエは独裁者として圧政を敷きます。この実行に貢献したのが大統領補佐官のクレメント・バルボ(Clément Barbot)で、民兵組織である国防義勇軍(MSVN/Milice de Volontaires de la Sécurité Nationale)を創設。MSVNは神話の鬼や魔物を意味するトントン・マクート(Tonton Macoute)と呼ばれて怖れられ、ハイチは楽園ではなく、恐怖の国と化します。
この背後にいたのが米国です。中南米が共産化することを怖れて、反共主義のデュヴァリエを支援し、トントン・マクートは米国で軍事訓練を受けます。
トントン・マクートは給料が出ないボランティア組織のため、恐喝、強盗、誘拐、殺害などの犯罪で生計を立てていて、彼らによって数万人が殺害され、レイプもし放題。国民はつねに恐怖のどん底へ。
当時のドキュメンタリー。
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