松沢呉一のビバノン・ライフ

アウシュヴィッツにいたのは数日だけ—V.E.フランクル著『夜と霧』[5]-(松沢呉一)

フランクルの収容所体験を検証する—V.E.フランクル著『夜と霧』[4]」の続きです。

 

 

現実の収容所経験と本の記述を照らす

 

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しばしばヴィクトル・フランクルは「4つの強制収容所を体験した」とされています。テレージエンシュタットを強制収容所としてカウントしているのでしょう。私も実質の強制収容所だと思いますから、それに異論はありません。

テレージエンシュタットで父親は死亡していて、ヴィクトル・フランクルはここで何をしていたのかと言えば彼本来の精神分析医でした。

テレージエンシュタットでの体験も本書には反映されている可能性もあるのですが、そうとわかるようには書いていません。テレージエンシュタットに2年強医師として収容されていたことは一切触れられていないのです。

1944年10月にここからアウシュヴィッツに移送され、3日後にダッハウに移送されてます。ここから解放まで6カ月です。

つまり、『夜と霧』で書かれているのは6カ月間の記録です。うちアウシュヴィッツは3日であり、あとはダッハウのサテライトキャンプであるカウフェリング IIIカウフェリングVIです。

ダッハウは絶滅収容所ではありませんでしたから、そちらに移送された段階で、すぐさま殺される可能性は落ちています。だから皆小躍りをして喜んだのです。

カウフェリングVIにいたのは1カ月から2カ月足らずです、これは病気になった収容者の施設であり、フランクルは「病囚収容所」と表現しています。ここでフランクルは医者として働いていて解放を迎えています。

以上が、フランクルの収容所経験と本の記述の関係です。

これでこの本が薄い理由もわかりました。テレージエンシュタットに触れないことにしたため、書けることが少なかったのでしょう。そりゃ無感動、無感覚、無関心になることで現実から逃避して自身の精神を支える異常な状態になった収容者が、記録することもできない環境に6カ月間いて、労働し、寝ることを繰り返したところで、思い出すのは薄いスープと腐ったイモのことくらいです。

期間と文字数の配分までを出すともっとはっきりするはずですが、逃亡を企てる収容者に協力した話、降霊会に参加した話、死を前にした女性収容者の話、自身も逃亡しようとした話、収容者がいなくなった女性収容所の中に入った話など、印象的なエピソードは医師としての体験です。特権的な収容者じゃないと書くべき体験がなかなか出てこないことは容易に想像できます。

※ヴィクトル・フランクル研究所の略歴より1945年。ここにはアウシュヴィッツに到着して数日後に労働収容所(カウフェリングIII)に移送されたとあります。アウシュヴィッツ滞在は選別のための数日であったことは間違いないでしょう。

 

 

フランクル自身、アウシュヴィッツの記録として読まないように注意していた

 

vivanon_sentence多くの読者はこれはアウシュヴィッツ強制収容所の記録だと思ったことでしょう。出版社の序には「自らユダヤ人としてアウシュヴィッツ収容所に囚われ、奇跡的に生還したフランクル教授」による本だと説明されていますし、訳者あとがきも同様。巻末の図版でも使用されているのはアウシュヴィッツが多く、ダッハウの写真は2点のみで、いずれも遺体写真です。

しかし、よくよく読むと、アウシュヴィッツの記録として読まれないようにフランクルは以下を第一章が始まってすぐに書いています。

 

さらに前もって断っておかなければならないことは、以下の記録はアウシュヴィッツという有名な大収容所の出来事というよりも、むしろその悪評高い支所のそれに関することだということである。

 

原文がそうなっているのかどうか疑わないではないですが、これだとアウシュヴィッツの支所のことのようにとらえられます。アウシュヴィッツも多数の施設の複合体ですから。本文をよく読めばダッハウのサテライトキャンプであることはわかるのですけど、ダッハウに到着するのは第五章「発疹チブスの中へ」(135ページ)からです。

 

 

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