松沢呉一のビバノン・ライフ

ヒトラー・ユーゲントの末路—バルドゥール・フォン・シーラッハに見る依存的思考[2]-(松沢呉一)

本をなぞることと本を考えること—パルドゥール・フォン・シーラッハの依存的思考[1]」の続きです。

 

 

ヒトラー青年クエックス

 

vivanon_sentence1932年1月、シーラッハらがビラ配りをしていたところ、共産主義者のグループが襲撃し、ヒトラー・ユーゲントのメンバーだった12歳のヘルベルト・ノルクスが逃げ遅れて殺害されます。

すかさずシーラッハとゲッベルスはこれを利用して、カール・アロイス・シュレジンガー小説『ヒトラー青年クエックス(Hitlerjunge Quex)』を書かせ、これがベストセラーとなり、翌年、ハンス・シュタインホフ監督で映画化して、ヘルベルト・ノルクスの英雄化は成功。これが大規模なナチス映画戦略の第一弾とゲッベルスは評しています。

こういうところは目ざとい。

1932年、ヒトラーのお抱えカメラマンであったハインリヒ・ホフマンの娘のヘンリエッテと結婚。

1933年、ヒトラー政権樹立後、シーラッハはドイツ国青少年指導者に任命され、他の青年団体をつぶしにかかり、さらに「ヒトラー・ユーゲント法」が制定され、10歳から18歳までの男子は全員参加となります。女子はドイツ女子同盟に参加。

1939年、国軍に入隊し、翌年帰還して、ヒトラーの命により、ウィーン大管区指導者に就任。

この段階でヒトラー・ユーゲントから離れているので、以降のことは彼の責任ではないわけですが、ヒトラー・ユーゲントの華々しい最期を確認しておきましょう。

Wikipediaより映画「Hitlerjunge Quex」のポスター 。クエックスはヘルベルト・ノルクスのあだ名

 

 

ヒトラー・ユーゲント師団の末路とニュルンベルク裁判

 

vivanon_sentenceB.R.ルイス著『ヒトラー・ユーゲント—第三帝国の若き戦士たち』の読みどころは、1943年、スターリングラードでのドイツ軍の敗退から転落していくナチスドイツで、ヒトラー・ユーゲントがどういう役割を果たしたのかです。

スターリングラードで30万人の兵士を失って、ヒトラーはヒトラー・ユーゲント師団(第12SS装甲師団/12.SS-Panzer-Division Hitlerjugend)の結成を命じます。ヒトラー・ユーゲントを戦地に投入するアイデアを最初に提案したのはシーラッハの後釜としてヒトラー・ユーゲントの指導者となったアルトゥール・アクスマンでした。これをヒムラーがヒトラーに提言して、ヒトラーが追認。

この段階では16歳以上だったのですが、ノルマンディー上陸作戦の防衛としてヒトラー・ユーゲント師団が投入されて連合軍を手こずらせ、同時に多数の犠牲も出し、参加したヒトラー・ユーゲントの43パーセントが死亡。

また、東方戦線でも続々戦死していくために、戦争末期には15歳以上が最前線に送られます。兵士にはタバコが配給されたのに対して、彼らにはチョコレートやチョコレート・ミルクが配給されたのが泣けます。

Wikipediaよりヒトラー・ユーゲントの旗

 

 

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