松沢呉一のビバノン・ライフ

気に食わない人物にのみ適用する「差別認定」はやめれ—麻生太郎の「女性ですよ女性」発言のどこが問題なのか誰か教えて[下]-(松沢呉一)

4年経って読んだ麻生太郎批判記事の強烈な「差別性」—麻生太郎の「女性ですよ女性」発言のどこが問題なのか誰か教えて[中]」の続きです。

 

 

 

 

岡本純子氏への疑問

 

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今回改めて振り返っても、麻生太郎の「女性ですよ女性」発言は、自身の中にある女性観に照らして豊田真由子を批判している可能性がゼロではないにしても、それより過去に照らして女性議員では例のないケースであることに驚いていると考えた方がはるかに自然です。その可能性が高いにもかかわらず、「差別表現」と決めつけた方々は、深い考えもないまま、「麻生だから性差別に違いない」「麻生が嫌いだから貶めたい」としただけだとの疑念がいよいよ深まりました。

これに対して「東洋経済ON LINE」の「「怒りながら叫ぶ女」はどうして嫌われるのか—小池百合子氏と蓮舫氏には決定的な差がある」は、麻生太郎の発言を「性差別的で片腹痛い」としながら、男だったら許されても女は怒りを表現してはいけないとの考えから蓮舫にダメ出しをした「逃げ場のない性差別記事」のはずです。なんで放置されているんですかね。「男はやってはいけないが、女はやっていい表現」てこと? それも性差別。

麻生太郎の発言がないとしても、この一文を読んで、疑問が次々と湧きました。

ヒラリー・クリントンは強いキャラを打ち出して失敗したという評価になってますが、これは女が強さを打ち出したことに失敗があったのではなく、政治家のキャラ変換そのものに失敗があったのでは?

政治家に限らず、俳優でも歌手でも、あるいは曲や漫画、イラストといった作品でも、定着したイメージを転換することは難しいものです。これは「KABA.ちゃんがテレビで扱いにくくなった理由—メキシコのホモフォビアと日本のホモフォビア[4]」にも書いた通り。氷川きよしは鮮やかな変換を成功させた稀な例であって、なかなかああはいかず、今までのキャラに固執するファンが離れたりもします。

ヒラリー・クリントンが逆方向の方向転換を図ったのだとしても失敗した可能性があります。そうだと断定できるわけではないのですが、その可能性もあるのに、あるいはさらに別の可能性だってあるのに、強い女性像を打ち出した失敗だけで説明するのは無理があろうと思いました。

これが岡本純子式です。岡本氏の論理は、狭い狭い視野で、小さなところを切り取った場合に成立するように見えるだけで、視野を広げた途端に崩壊するものばかりだと思えます。百の可能性の一を取り出して、政治家のすべてを肯定したり、否定したりしています。

政治家にとっての学歴—日本の女性議員率 13」で国会議員の学歴を調べました。圧倒的に東大卒が強い。旧帝大と有名私大も強い。「将来政治家になりたい」という中学生や高校生がいたら、「いい大学に入ろうな。専攻は政治経済法学で」「女子大に行ってもほとんど意味ないぞ」と指導するのは、適切な環境を得て「当選率を上げる」「政治家になるルートを確保する」という意味では間違ってませんが、高卒の候補者に対して、あるいは女子大出身の候補者に対して「この人はダメ」と決めつけるのは間違い。ある側面を切り取ったデータを個人に落としこむことには慎重であるべきです。差別を避けるための基本。

※今回の都議会議選新宿区のポスター掲示板。この写真を見ても同意していただけると思いますが、3メートルほど離れたところから見て、どれがポスターとしてもっとも有効だと感じたのかというと、大山とも子候補です。色味が他とまったく違うのと、文字が大きいためです。横位置のポスターが少ないため、比較的目立つということもあるかもしれない。同じ横位置の都民ファーストの森口つかさ候補は前回同様小池百合子に頼ったため、その距離だと印象がかすんでしまっています。もう一歩前に出てポスターを見るとまた違う候補や違う面が目に入ってきますし、いざ投票する場合は政党、経歴、実績、主張までを検討します。どの局面かによって判断は違って、「3メートル離れたところから見たポスターの評価」はその条件のもとでしか通用せず、この時も他との兼ね合いによって違ってきますから、つねに「ピンク系がいい」と決定することはできません。これと同じように、岡本氏の論も限定的な条件のもとでしか成立しないものだと思えます。

 

 

小池百合子の現評価

 

vivanon_sentenceたしかにあの時期の小池百合子は勢いがありました。メディア戦略も成功し、私も感心したところがありましたが、今はすでに化けの皮がはがれてきてましょう。

政治家が露出を増やすことはメディア戦略の基本であり、単純接触効果としても正しいのですが、多くの人がそこに気づいていて、「小池百合子は信頼できるよね」ではなく、「小池百合子はテレビの使い方がうまいよね」と言われるようになり、そのために、キャラ作りは何も変わっていないのに、「出たがり」「外面だけいい」「中身がない」「タヌキ」といった評価が高まってしまっているように見えます。

 

 

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