松沢呉一のビバノン・ライフ

心理分析官が解き明かすドイツ人の特性—「ナチス残酷博覧会」を終わらせたい[下]-(松沢呉一)

『夜と霧』の先に進む—「ナチス残酷博覧会」を終わらせたい[上]」の続きです。

 

 

 

ジョセフ・E・パーシコ著『ニュルンベルク軍事裁判』から

 

vivanon_sentenceシーラッハとヒトラー・ユーゲント」シリーズで何度か出てきたジョセフ・E・パーシコ著『ニュルンベルク軍事裁判』もまた好著で、この本のまえがきにはこうあります。

 

 

著者が苦慮した問題のひとつは、公判中に提出された、残虐行為に関する膨大な証拠をどうあつかうかということだった。読者はそうと感じないかもしれないが、著者としては、そうした証拠類の記述は、残虐さの性質と規模を伝えるのに必要最小限な分量にとどめたつもりだ。記述を増やすと、読者の感受性を刺激するよりも、むしろ麻痺させる恐れがあると考えたからである。

 

 

たしかに本書では収容所や捕虜の虐殺について必要最低限の記述しか出てこず、上下巻ともに巻頭に掲載された口絵には、法廷での被告たちの写真に混じって強制収容所の写真が何点か掲載されていても、死体写真は一点もありません。現にニュルンベルク裁判の証拠として多数出されていますから、その中から転載する分には問題はないですが、一点も出していないのは抑制が働いた結果です。死体が山積みの写真を出した方が売れるかもしれない。しかし、それはやらない。

ニュルンベルク裁判では、どうしたってそういった事実の確認が必要でしたし、それとともに「いざとなったらユダヤの虐殺、捕虜の虐殺を持ちだして被告らを不利にする」といったところもあって、必要以上に残虐な証拠が強調されたところがあります。

薄々は気づいていた、あるいは文書でははっきり気づいていたにせよ、連行、虐殺の現場を直視したわけではない被告たち(収容所に行ったことのある被告もいますが、それでも虐殺の現場は見てないでしょう)にそれを突きつけて悔悛することを期待する効果、裁判官の心証を有利にする効果、法廷外での批判(「所詮、連合国の報復裁判ではないか」など)を黙らせる効果を狙ってのことです。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所解放後にブルドーザーが死体を穴に放り込む映像などが上映され、ジャーナリストの中には気分が悪くなって退廷するのもいたそうです。

あれを初めて観た時の衝撃に比して、繰り返されることで衝撃は薄れていくものです。アラン・レネ監督「夜と霧」でもあのシーンは使われていますけど、二度三度観ていくうちに慣れます。私も煎餅を食いながらあれを鑑賞できます。慣れたわけではなく、最初からですが。収容所内の記録を読むのは苦手でも、ああいう映像は平気です。生きている人の辛苦は耐えがたいのですが、死体はもう死んでますので。

死体映像は、「もう見たくない」とそこで終わってしまう人たちをも生み出します。その先にまだまだ知らなければならない事実、考えなければならないテーマがあるのに。

それでもそういったものを多数掲載すれば食いつくのもいますけど、死体写真集で興奮したい人たちに冷静な判断を期待するのは無理ってもんで、おかしな点が多数あっても夜と霧は何十年も放置されました。何十万、あるいは百万を超える読者たちはいったい何を読んだのか。

死体写真集やSM写真集が悪いと言っているのではなく、そういうもので興奮してしまう自分を自覚して楽しむ分には問題なし。事実を知って考えたいのではなく、残虐なものを消費したいだけの自分を自覚すべし。

Wikipediaよりニュルンベルク裁判の被告席

 

 

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