松沢呉一のビバノン・ライフ

数分で投げ出した本を改めて読んだらヤリマン・フェミニズムの素晴らしい内容だった—ヴィルジニー・デパント著『キングコング・セオリー』[1]-(松沢呉一)

 

同意できるフェミニストの本を読みたい

 

vivanon_sentenceフェミニズムを看板にして、戦前の道徳復活を画策する全国フェミニスト議員連盟とやらがあまりに不愉快かつ危険で、共感したり、感銘したり、尊敬したり、和んだりできるフェミニストの書いたものでも読んで浄化したい。

前々から言っているように、そういうフェミニストは往々にしてフェミニストとは名乗っていないので、フェミニストが書いたものである必要もないのですが、フェミニストと名乗るべきではない人々が全国フェミニスト議員連盟と名乗っていることに対抗するにはフェミニストであった方がいい。「そうそう、本来、フェミニズムってこういうものだよな」と再確認したいのです。

でも、日本では伝統的に売春潰しに精を出したり、ポルノ狩りに精を出したりの神近市子みたいなのがゴロゴロいて、昨今は矯風会をフェミニズムにカウントする呆れた道徳一派が大手を振っているようなので、国内じゃ無理か。

数秒思いを巡らせて、「あ、あれがあった」とタイトルが出てきた本がありました。ヴィルジニー・デパント著『キングコング・セオリーです。

この本は今年の頭にSWASH要友紀子が送ってくれたものです。届いてすぐに読み始めて、読み始めてすぐに挫折しました。

第一章の「バッド・ガールズ」は以下から始まります。

 

私はブスの側から書いている。ブスのために、ババアのために、男みたいな女のために、不感症の女、欲求不満の女、セックスの対象にならない女、ヒステリーの女、バカな女、「いい女」市場から排除されたすべての女たちのために。

 

この調子で7ページにわたって、この本がどんな立場から、誰のために書かれたかの説明が続きます(本の大きな帯にも書かれています)。「キングコングみたいな女」もその中のひとつ。第一章はそれだけで終わるのですが、途中で「もう腹いっぱい」となって本を閉じてナチス関連の本に戻り、そのまんまになってしまいました。

 

 

著者は実践派のヤリマン・フェミニスト

 

vivanon_sentence私の中にもある「全部出しておかないと納得できない」といった強迫神経症的なくどさがこの文章にはあります。私の中にあると言ってもここまでひどくはなく、仲間かもしれないだけに拒否してしまいました。そのことと関係しているのかどうかわからないですが、著者は若い頃に精神病院に入っていたことがあって、強迫性神経障害かもしれない。

閉じたまま10ヵ月経って、数日前にこの本のことを思い出したのでした。

この第一章の中に「太ったヤリマン」(の立場から書いている)というフレーズが出てきます。訳者(相川千尋)はナイスです。「ビッチ」より「ヤリマン」でしょう(フランス語だとsalopeやbimboになるみたい)。

こういう言葉を肯定的に使っているフェミニストの本です。わずか数ページでも、知的で上品な優等生だけを「女」として想定していそうな全国フェミニスト議員連盟の対極にいる人だろうことは理解できたので、浄化する力はありそうです。

改めて読んだらやっぱり冒頭は修辞としてもあまりにくどくて、「社会が望む女の規範から外れた私が、同じタイプの女たちに向けて書いた」で済ませてよかったと思うのですが、以降は全然そんなことはなく、あっという間に読み終えました。

「ここは同意しにくいかな」というところはありつつ(同意するにはさらに検討が必要)、全体としてすっきりと頭に入ってきましたし、期待通り全国フェミニスト議員連盟によるケガレが浄化されました。

※仏語版『King Kong Theorie』 日本語版の表1も「デパント」だけになっていて、原著でも「Despentes」だけ。

 

 

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