赤線になろうとした新宿二丁目の青線—改めて新宿の遊廓と花街を訪れた[上]-(松沢呉一)
二丁目の赤線・二丁目の青線
モダンフリークスの福田君が昭和のエロを総括する雑誌の記事を請け負って、私にインタビューをしてまとめることになりました。「昭和のエロ」と言っても幅が広いのですが、おもに戦後です。
適当に渡した資料の中に新聞がありまして、昭和28年7月23日付「東京毎夕新聞」に「“赤”になりたい青線区域—もめる二丁目特飲街」という記事が出ています。
新宿二丁目に遊廓や赤線があったことはよく知られていますが、戦後は赤線だけでなく、青線も共存していました。これについては「新宿二丁目にあった赤線の位置を空撮写真で見る-アサヒグラフより」で説明した通り。
青線はゴールデン街(の半分)にも及び、駅周辺にはパンパンたちが立ち、旭町に客を連れ込んでいたのですから、当時の新宿は全体が売春タウンでした。もっとも健全だったのは歌舞伎町かもしれない(始まった当初は映画館、ボウリング場、スケートリンクなどからなるファミリー・ユース、カップル・ユースの街)。
「東京毎夕新聞」には赤線と青線を示す写真も掲載されています。右手が青線、左手が赤線と書かれていますので、花園通りを西側(新宿駅側)から東側(四谷側)に向けて撮ったものと思われます。写真の具合で広く見えますが、おそらく片側一車線です。中央に植え込みがありますが、歩道がないので、今と同じ広さではなかろうか。
このふたつが共存していた二丁目で、青線が赤線に組み込まれようと画策しながら実現しなかったという内容です。実現しなかったので、さして重要ではないのですけど、当時の二丁目の赤線と青線の関係や売防法の前身の法案がどうとらえられていたのかがわかるという意味では貴重な記事です。
ざっと記事の内容を紹介しておきます。
なぜ計画は頓挫したのか
以下はリード。
同じ町内に「赤線区域」と「青線区域」とが同居(?)していて「青線区域」側が、売春等処罰法の動きに対し、「赤線区域」への合同をはかったが、「青線区域」内の一業者の行為がガンとなり、せっかく合同一歩まえまで来ながら一とんざを来しているというヤヤコシクも変わった事件が起こっている。
同居に「?」がついているのは原文ママ。
二丁目の赤線と青線の関係については記事の冒頭で説明されています。
問題の場所は、俗に「二丁目」で知られる新宿特飲街である。ところがこの「二丁目」には「新宿カフェー協同組合」(新宿区新宿二の二一)に属する「赤線区域」七十五軒(女給約五百人)と「新二カフェー喫茶店事業協同組合」(新宿区新宿二の六三)に属する「青線区域」三四軒(女給約百六十人)狭い道路ひとつへだてて同居(?)している。
「三四軒(女給約百六十人)狭い道路ひとつへだてて」は「三四軒(女給約百六十人)が狭い道路ひとつへだてて」だろうと思います。
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