松沢呉一のビバノン・ライフ

奴隷という自己規定で楽になれる人々に向けた「星占いフェミニズム」—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[14]-(松沢呉一)

田嶋陽子の「奴隷論」は男女の差異を固定する—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[13]」の続きです。

今回も図版はこれを書いた2019年末に起きていた香港の民主化運動で闘っていた女子たちです。

 

 

 

奴隷論が日本の女の幸福感を作り出している?

 

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田嶋論では日本には女性差別が存在しないことになる」で見たように、田嶋論では女性差別はない、あるいは消えつつあることを数字は示しています。しかも、女たち自身が「女の方が楽しみが多く、幸福である」と認識しています。

この数字を恣意的に使ったことが田嶋陽子の限界です。そういうズルをしない私としては、これをどうとらえるのかと言えば「そんな感じでしょ」ってところです。

たしかになお格差はあります。企業の経営者や政治家、医師、弁護士、大学の教員数にはなお男女差がはっきりあります。しかし、これは選択の結果でしかないことは今まで見てきた通りです。ほとんどの人ははっきりとした形では強いられていない。「なりたいのになれない」のではなくて、「なりたくないからならない」のです。選択の結果ですから、解消が難しい。選択をした人たちに「あなたの選択は間違っている」ってどうして言えましょう。

その自己決定を尊重するのであれば、その選択の結果も批判しにくい。奴隷を自ら選択するのもご自由に。

このことが象徴するように、しばしばこの社会では女性差別として扱われる事象は女たち自身が選択した結果です。これを男社会が決定したものとするから見誤ります。

「男社会」ではなく、「男女社会」とでも言った方がいいし、そうした時に、差異主義がそこに加担していることも見えやすくなります。少なからぬフェミニストが自分が考える「女」という枠組みに執着し、時にそれを他者に強いてきました。田嶋陽子も既存の「女は平和的である」といったイメージをなぞっているように、そこから外れる女は女ではないと実質言ってしまっています。こんな規定は百害あって一理なし。

また、結婚する女は奴隷であるとも言っています。他者の選択を尊重する個人主義ではなく、新たな規範を作り出す考え方であって、こういう発想は時に内面化した旧来の道徳をなぞります。

セックスワークの否定がその最たるものです。この点においては、女を抑制してきたのはしばしば女たちです。

なぜあばずれる女を制裁する女たちがいるのか。なぜ女の乱暴な言葉使いを女が指弾するのか。男社会の被害者でいたいからでしょう。被害者には罪はない。楽なのです。

まさにこれが田嶋陽子に「あんたたちは奴隷だ」と言われて、「その通り」としながら、その現実を変えようとしない人たちです。結婚する女が奴隷であるとの規定に賛成するなら、田嶋陽子のように結婚しない選択が正しい。選択してしまった人は離脱すればいい。そうはしないで、奴隷規定を受け入れるだけの人々はいったいなんなのでしょう。

※三浦信孝編『普遍性か差異か―共和主義の臨界、フランス』は古本屋に注文して、金も払ったのに送られてこず、面倒なので催促もせず、そのまんまになってしまって読んでないです。フランスの普遍主義も限界に達しているようですけど、まずは私らは普遍主義の立場を理解し、そちらに近づくべきだろうと思います。そうしないと、またまた道徳にからめとられます。

 

 

奴隷ではないのに奴隷とされることはある人々にとっては最善の扱い

 

vivanon_sentence生まれ変わったら今のままの性でいたいという数字に男女差がなくなり、幸福で楽しいと感じるのは女の方が多い現在の状況は、田嶋陽子の「奴隷論」のような考え方こそが作り出していているのではないかとも思いました。

つまりは男女の差異を固定している考えです。田嶋陽子の考え方では性質として「女は平和的で闘いを望まず、社会進出よりも農業に向く」ということになり、男との関係では「女は奴隷である」となります。

なにしろ「女の方が幸福度が高く、楽しい」と感じているのが多いにもかかわらず、奴隷だと決めつけ続けているわけで、現実はどうあれ、そうあって欲しいという田嶋陽子の願望が表出されています。

現実には奴隷ではないことも皆さん知ってます。しかし、奴隷という逃げ道が与えられている分、楽なのです。

男社会によって女は奴隷にされていると考えておくと、あらゆる個人の責任が消えます。すべては男社会が悪い、男が悪いと言える。対して、これを男女が協同で作り上げている「男女社会」だと考えると、自分にも責任が出てきます。それは厳しい。一方的な奴隷だと言われた方が楽。

※※11月14日付「香港蘋果日報」の中継より。この脇でバリケード作りが進んでいたのですが、中央左のリュックとミニスカートの彼女はそれを手伝っている、少なくとも手伝おうとしているように見えました。マスクもしていて、スニーカーです。これは警察も見逃すでしょ。「スカートは行動的ではない」という決めつけを逆手にとっているのではなかろうか。リュックの中にはもちろん火炎瓶が入ってます。知らんけど。

 

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