松沢呉一のビバノン・ライフ

東京に外国人居留地や築地ホテル館があった頃—短期で消えた新島原遊廓-(松沢呉一)

 

「知らない東京」の筆頭は築地

 

vivanon_sentenceたったひとつの企画で、しかも、私はインタビューされただけなのに、こうもモダンフリークスの福田君との仕事について引っ張るのはどうかと思うのですが、最近、私の話を聞きたがる人なんざ、めったにいないので、あれだけでも大変なイベントでした。

誌面には反映されなかったですが、写真を撮りに行った十二社で、今まで気づいていなかった花街の痕跡を見たのもいい刺激になりました。まだまだ知らないことがいっぱいあるなあと。

銭湯制覇もヘビマップづくりも昨年で終わって、東京を歩き回る名目がなくなってしまってますが、花街のあった場所を巡るのも悪くないかもしれない。どうせもう誰かがやっていましょうけど、私個人の好奇心は満たせます。

「知らない東京」の筆頭は築地です。銀座・築地方面は敷居が高い上に、震災や戦災で焼けているので、行ったところで一世紀前の痕跡を見ることは無理です。

ということから私は築地方面は疎い。あそこには遊廓があったのですが、私自身、現地で調べたことはないし、調べたところで何も出てきそうにありません。

※一曜斎国輝「東京新嶋原勝景」 全10葉からなる絵で、妓楼名や茶屋の名前も入っていて、いかに広く、いかに立派な遊廓だったかがわかります。

 

 

ほとんど語られない遊廓

 

vivanon_sentence遊廓と言えば、吉原・洲崎・品川・千住・内藤新宿・板橋が知られますが、これらは江戸時代に誕生し、近代になっても栄えました。早くに終わった板橋を除くと、赤線に業態を変えつつ、戦後にも継続されます。

それぞれ小説や映画の舞台にもなり、今もなお痕跡を探すことはできますし、赤線時代を知る人に会うこともできます。

それに対して築地にあった遊廓「新島原遊廓」は明治元年(1868)から明治4年(1871)までの2年半程度しか存在しなかった短命の遊廓であり、消えて以降ほとんど話題にされなかったため、記録があまり残ってません。また、その地は大火、震災、戦災で繰り返し焼かれているので、痕跡もない。

新島原遊廓は、遊廓史、性風俗史でも無視されることが多く、銀座や築地の歴史について書いたもの、開国よもやま話的なもので取り上げられていることの方が多いかと思います。

国会図書館で「新島原遊廓」で検索しても、ほとんどひっかからず、『東京市史稿. 市街編50』に設置願いの書類などが掲載されている程度です。

※竹内宏著『路地裏の文明開化—新橋ロマン物語』は新橋、銀座、築地の明治以降の発展をまとめたもので、新島原遊廓についても軽く触れられています。新島原遊廓については軽く触れる以上に触れているものは見たことがない。

 

 

賑やかだった時期も少しはあったよう

 

vivanon_sentence以下は東京都立図書館のサイトより歌川国輝「東京築地鉄砲洲景」。

 

有楽町あたりに標高300メートルくらいの山があったとして、その頂上から南東に向けて俯瞰した光景です。タイトルの鉄砲洲は外国人居留地のあった場所です。右端に築地ホテル館が見えます。左手に新島原遊廓があるのがわかります。

拡大すると花魁たちの姿が見えます。

 

 

 

一瞥して吉原スタイルだとわかります。これはのちの宣伝用花魁道中ではなく、リアルな花魁道中っぽい。

にぎやかしの赤提灯があるのは茶屋でしょう。商家にも妓楼にも水引暖簾があるように見えます。提灯的にも暖簾的にも興味深い。

東京新嶋原勝景」も東京築地鉄砲洲景」も明治2年(1869)のもので、最初はこのくらい流行っていたのかもしれないですが、すぐに廃れて、誰も寄り付かなくなります。

大きな誤算があったのです。

 

 

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