松沢呉一のビバノン・ライフ

投込寺・浄閑寺の資料としては役に立たないのだが—岩野喜久代著『投込寺異聞』[上]-(松沢呉一)

よく言われるような意味での「投込寺」は都市伝説であるという話は「投込寺の正しい由来-「吉原炎上」間違い探し 22」を参照のこと。

写真は今まで使ったものを使い回しています。

 

 

どこで投込寺ファンタジーに気づいたか

 

vivanon_sentence投込寺」と称される三ノ輪の浄閑寺については、これまでにも何度か言及してきました。「亡くなった遊女・娼妓の遺体が投げ込まれた寺」とされていることについては都市伝説の類であり、投込寺は、安政大地震の際に、多数の遺体が穴に投げ入れられたことが始まり。遊女に限らず、大地震においては多くの住民が亡くなって、同様の扱いをされたに過ぎないと断定していいでしょう。遊廓の苛酷さを物語る名称ではなく、地震被害の凄惨さを物語る名称なのです。

本来、遊廓で遊女・娼妓が亡くなった場合、葬儀をするのは親族ですが、ほとんどの場合親族は貧しく(金銭的に逼迫していないと働けなかった)、遺体、遺骨を引き取りにくることも出来ず、妓楼が処理をすることになります。金のある馴染みがついていれば墓を建ててやることもありましたが、そういった客がいなければ簡素な葬儀をやり、浄閑寺に無縁仏として葬ります。これを「投げ込み」と称したとの説もあります。

であるなら、安政大地震の以前からそう呼ばれていていいはずですが、「投込寺」という名称はもっぱら近代に広まったものであり、近代の遊廓評価に伴って好まれた名称です。

浄閑寺以外にも「投込寺」と呼ばれる存在はありますが、どれも同様です。

と私は思っているのですが、そう思うようになったきっかけがなんだったのか記憶にありません。すでに誰かがそう書いていたのか、さまざまなものを読んでいるうちにそういう結論に至ったのかも定かではありません。

浄閑寺についての本はさまざま出ていますが、タイトルにまで入っている、一冊まるごと浄閑寺についての本としては岩野喜久代著『大正・三輪浄閑寺』があります。

岩野喜久代は明治36年(1903年)、広島生まれ。大正11年、東京女子師範学校(現在の御茶の水大学)を卒業後、東洋大学に入学。大正14年に浄閑寺の住職と結婚。昭和5年、与謝野鉄幹・晶子夫妻に師事し、新詩社同人となり、短歌、小説を手がける。昭和17年、与謝野晶子逝去を受け、文化学院にて短歌を指導。1996年死去。

こういう略歴であり、いわば内部視点で浄閑寺を見てきた人ですから、期待してしまうところですが、私の興味は満たされなかった記憶があります。現物がすぐには出てこないので、あくまで記憶ですが、三ノ輪という町、浄閑寺という寺については内部から書かれていても、吉原との関係は、外の人が知っている以上のことは書かれていなかったはずです。

大正・三輪浄閑寺』が出たのが1978年。その5年後に岩野喜久代は『浄閑寺異聞』を出していて、こちわも私はも購入していたのですが、小説のため、資料としてはさらに期待ができず、読まずに放置していました。先日この本が出てきたので、購入してから四半世紀ぶりくらいに読んでみました。

 

 

岩野喜久代著『浄閑寺異聞』を読みました

 

vivanon_sentence結論を言うと、やはり「投込寺」たる浄閑寺の資料としてはほとんど役に立ちませんでした。その事情は後書きに書かれています。

 

安政大地震の際、おびただしい吉原の遊女の横死者を一穴に葬ったことからこの名称が生まれたとも云い、又は三百年来、引取り手のない遊女を投げ込むように寺に送りこんだからだとも云う。安政大地震、関東大震災の遊女の横死者はすべて浄閑寺に葬られているが、私が寺庭に在った昭和期には、寺と吉原は疎遠になって、私は楼主や遊女たちが寺詣りをする姿に接したことはない。元来、投げ込む位だから、あとの法要、墓参をするような殊勝な楼主はいないし、忌まわしい貸座敷業を子孫に知られたくない楼主関係者の中には、「お参りは自分一代限り」と、絶縁を申し出る者もある位だ。

 

「横死(おうし)」は天命をまっとうしない不慮の死のこと。

投込寺という呼称は安政大地震の際に生まれたのと、遊女を投げ込むように扱ったのと、二種の説があると書いているにもかかわらず、その直後には妓楼が遺体を投げ込んだかのように扱ってます。そうであると都合がいい人たちの願望が投込寺伝説を作り出したのです。

関東大震災でも吉原の娼妓に限らず、多数の住民が亡くなったわけで、一人一人を確認することもなく穴に投げ入れました。私もはっきりわからないのですが、関東大震災の遺体はすべて浄閑寺に運び込んだのではなくて、学校の校庭や川原などの空き地で焼くなり埋めるなりしたのではなかろうか。こういう場合にいち早く処理をするのは伝染病が蔓延しないためであり、時間をかけて大量の遺体を浄閑寺にわざわざ集めたとは思いにくい。

仮にそうだとしても、浄閑寺に一人一人の墓碑があるわけでもなく、震災で亡くなった娼妓たちの冥福を祈る立派な慰霊塔は吉原公園に建てられてましたので、手を合わせるのであれば、すぐ近くの慰霊塔に行ったでしょう。対して三ノ輪は隣町で、歩くとけっこうあります。

 

 

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