松沢呉一のビバノン・ライフ

2人の訃報にここまで一切触れてなかった事情—長谷川博史と山本夜羽音(洋一郎)と要友紀子[上]-(松沢呉一)

連日、なにかしら要友紀子のことを書いています。今回と次回もそうなんですけど、今回はほとんど彼女は出てこないのと、あんまり広く書くべきではない内容も出ているので、通常更新とし、次回は無料記事とします。またしても長いです。

 

 

長谷川博史さんのこと

 

vivanon_sentenceあれから 3ヶ月半になるのか。

3月7日、SWASH要友紀子から、Facebookのメッセージで、長谷川博史さんの訃報を教えられました。

私はこの日の朝、区の健康診断のために病院に行っていて、その待ち時間にぼんやりと長谷川さんのことを考えていました。歳をとると、どこかしら悪いところは出てきます。私で言えば頚椎ヘルニア椎間板ヘルニアのダブル・ヘルニアだったり、副鼻腔炎だったり。どれも完治しそうになく、とくに椎間板ヘルニアによる足の痺れが常時続いていて、意識しないことでなんとかやりすごしています。それでも、今のところは命に関わるような病気はありません。

他にこれといった自覚はないのだけれど、検査によって、もし命に関わるような病気が発見されたら、長谷川さんを手本にしようと考えてました。

長谷川さんは、HIVに感染し、その治療薬がかつては重く、その副作用が残りました。それと関連しつつ不摂生が祟ったことなどによって体はボロボロで、透析をしてましたし、数年前には足を切断し、車椅子の生活でした。

自分の足で立てていた頃と同じようにはいかないにしても、それからも活動的でしたし、笑いを交えながら、人を勇気づける話ぶりは健在でした。

ただ、体は着々と悪くなってきて、顔の黒ずみは年々強まってましたし、何年か前に、自宅で倒れて救急車で運ばれたことが二度あったと言ってました。その時は助かったけれど、次に倒れたらあとがないとも言ってました。その時もいつもと同じように深刻さはなく、むしろ深刻さを吹き飛ばすように快活なトーンを帯びてました。

遠からず、その時が来るのかもしれないと覚悟はしてましたが、私の中での長谷川さんは「死にそうでも、死なない人」というジャンルに入っていて、案外私の方が先に死ぬかもしれないと思ったこともたびたびあります。そのくらい長谷川さんは生きる力に満ちているように見えてました。

だから亡くなったことを知って「来るべき時が来た」ということに過ぎなかったにもかかわらず、私はひどく狼狽してしまい、要友紀子に「今日、長谷川さんのことを考えていた」旨だけを返事として送り、それを送った直後にきれいにシャッターを閉じました。その事実を受け入れたくなかったのです。

以來、長谷川さんの死については書いておらず、人とも話しておらず、人が書いたものも読んでません。すべてはシャッターの向こう側の出来事であり、こっち側ではまだ生きています。

誰かが亡くなった時に、距離のある人たちは騒ぎ、より近い人たちは沈黙することがあります。悲しみは人を饒舌にしますが、強度の悲しみは人を寡黙にします。私の場合はそれとも違って、悲しみに直撃されないように、亡くなった事実をなかったことにしました。

※2015年、エイズ学会の関連イベントでポエトリー・リーディングをする長谷川博史

 

 

山本夜羽音君のこと

 

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その8日後の3月15日 前夜、山本夜羽音(洋一郎)が散歩中に倒れて、そのまま亡くなったとの連絡が要友紀子からありました。

この時私は外にいて、すぐさま要友紀子に電話をしました。長谷川さんの時はシャッターを閉じることができたのに、山本君の死はもっと感情を揺さぶるところがあって、誰かと話さないではいられなかったのです。その相手は要友紀子が最適でした。

自分でもそれが不思議でした。「どちらが意味のある存在だったか」なんて亡くなった人を比べるのはあまりに不遜で無礼ですけど、まだまだ必要としている人が多かったのは長谷川さんだったでしょう。

私自身、ここ数年は、山本君の存在を意識することさえなくなっていて、すでに死んでいるのと同じ存在でした。

なのにそうも動揺したのは、長谷川さんの死から1週間ほどしか経っておらず、これで臨界量を超えたというところもあったでしょうが、長谷川さんのことがなかったとしても、やはり山本君の死に同じように動揺したと思います。

 

 

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