松沢呉一のビバノン・ライフ

要友紀子・全国風俗街キャラバン第二弾は熊本—要友紀子がやりたかったこと-(松沢呉一)-[無料記事]

要友紀子の全国風俗街キャラバンに猛烈に感激しました—未来を作ろうと奮闘する人と過去の再生産をやるだけの人たち」の続きです。

※あとで気づいたのですが、「熊本編」の前に「名古屋編」が出てました。どっちが先でも後でもいいものなので、直さないでおきます。

 

 

「熊本編」も画期的

 

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全国風俗街キャラバン」は連日の更新。昨日分は「熊本編」でした。

 

 

今回もまた要友紀子は月面宙返りをやってます。

少数の人の目や耳に触れるところでは公開してましたが、彼女が多数の人の目や耳に触れるところで、簡単ではあれ自身の経歴をはっきり語るのは今回の選挙が初めてではなかろうか。

彼女はこれこそをやりたかったのだと思います。どんな経歴をもっていても不利益を受けない社会にしたい。

SWASHの活動をやる上では、自身の経歴を語らないこともまた不利益を受けます。「要はセックスワーカー当事者のことを語りながら、自分は当事者ではないではないか」と言われてしまうのです。

彼女が言っていることをよくよく検討すれば、自身、その経験があることはわかるはずで、わかっていてあえてこれを嫌がらせとして突きつけてくるのだと思います。

現に彼女はこれをやられました。自身の経歴を語ると不利益を受ける社会で、自身の経歴を伏せることも責められる。

これも彼女が蓄積してきた悔しさのひとつです。

ヴィルジニー・デパント著『キングコング・セオリー』で、著者は、売春をすることよりも売春を語ることの方が難しいと告白しています。しばしば「売春することよりも、売春したことが知られることのスティグマによってこそ苦しめられる」と言われることと通じます。

おっぱい募金」に出たことよりも、自身の意思で出たにもかかわらず、「強いられている」「自分の意思だと思い込まされている」と言ってのけた糞どもの方がセックスワーカーのプライドを奪うのです。「おっぱい募金」で乳を触った人たちではなく、その主催でもなく、こいつらこそが加害者であり、それに無自覚であるがためにいっそう厄介です。

自分の意思を表明したら、「それはお前の意思ではない」と根拠なく決めつけられることがどれだけ不愉快なのかどうして想像できないんですかね。救いようのない差別者だからです。

 

 

メリッサ・ペトロの場合

 

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たまたま数日前に、メリッサ・ペトロのことをネットで読みました。2010年、ニューヨークでマッチング・サイトに対する規制があって、大手のクレイグスリストの売春前提のコーナーが閉鎖に追い込まれます(それ以外のコーナーは現在も健在)。

これに対して、ニューヨーク市の小学校で美術教員をしているメリッサ・ペトロは、ハフポストに、自分も大学院生の時に学費と好奇心のために、クレイグスリストを利用したことがあると告白する記事を出します。

 

2010年9月7日付「HUFFPOST

 

 

その体験は自分にとって楽しいものではなく、「二度とやらない」としていて、直接にはクレイグスリストを擁護しているわけではないのですが、さまざまな動機を持つ人たちをまとめてクレイグスリストの「犠牲者」として扱うことに疑問を呈し、規制することで売春する人たちがいなくなるわけではないとも書いていて、規制の無効性を指摘しているように読めます。

メリッサ・ペトロが売春をしたのは教員になる2007年より前のことですが、それでもこの記事が問題とされて、メディアに「売春教師」(hooker teacher)などと書き立てられ、彼女は教員を解雇されてしまいます。

彼女は自分の体験を肯定的に書いているわけではない。それでも過去に売春をしたことが問題にされました(それ以外にストリップもやっていたらしいですが)。彼女の告白には具体性はなく、クレイグスリストのコーナー閉鎖に対する意見を表明する際の、いわば「自分の資格」を書いているだけです。それでも許されない。

教員は過去の経歴を公開することでも生徒に影響を与えうるので、処分やむなしという意見もあるかもしれないですが、生徒のいない職種であってもやっぱり処分されることがあります。売春体験ではなく、学生時代に百人の男とセックスしたヤリマン体験を書いたのだとしても処分されるかもしれない。「はしたない女への制裁」なのです。

この問題は性産業の否定、メディアの否定では解決できない。解雇は不当であり、その撤回を求めることで解決されるべき問題です。

メリッサ・ペトロは上記の記事で、自身の肩書に「元セックスワーカー」「教育者」と並んで「フェミニスト」と入れています。フェミニストであれば「はしたない女への制裁」に反対してしかるべきであり、メリッサ・ペトロの処遇に対して声を上げたフェミニストたちがいます。これについてもそのうち書きます。

日本で言えばSWASHもこの処遇に抗議するでしょうが、日本ではフェミニストを自称する人々が「こういう目に遭わないように、セックスワークのようなけがらわしい仕事に近づかないようにしましょう」という教訓にして、「はしたない女への制裁」を固定させてしまいがちです。社会の価値観を肯定して、せっせせっせと再生産するのはフェミニズムと無関係の道徳運動だべ。

 

 

はしたない女に対する制裁をやめよう

 

vivanon_sentence要友紀子の元同僚には性風俗で働いた金で事業を始めて成功している人がいます。こういう例は枚挙に遑がなく、学生時代に学費を性風俗で捻出して、アカデミズムの世界で活躍している人や上級公務員試験を受けて合格した人もいます。

生活のためだけでなく、メリッサ・ペトロが書いているように、しばしば性風俗には好奇心の強い人たちもやってきます。要友紀子も一番最初は、広く言えば「好奇心」に分類される動機によって突き動かされたのがきっかけだったはずです。

要友紀子でもこのことをはっきりとは言いにくかったように、多くの人は言えない。「この人には言っても大丈夫」と思える人には言う人もいますが、それ以外の人には言えない。

今現在働いていることも言えないし、過去の経験も言えない。もっとも言いやすいのは「騙されてひどい目に遭いました」として自身を犠牲者、被害者として語ることでしょう。事実、犠牲者、被害者である場合はいいとして、そうとは言えない場合でもそう設定する。ウェンディ・ロワーの言う「女の犠牲者化」がこんなところでも発揮されます。

セックスワークを体験した人たちの中には政治家に向いている人たちもいますが、立候補することで、その過去がばれることを恐れます。そんな過去があっても不利益を受けない社会にしない限り、社会はこの人材群を十分に活かせません。

「日本には女性政治家が少ない」と嘆くのであれば、「女は政治家になる能力がないので、下駄をはかせよう」と、「女子供バイアス」を強化するクオータ制のような制度を求めるのでなく、ここを改善しましょうよ。

メリッサ・ペトロのTwitterアカウント。今はライター、YouTuberとして活動。ここ最近は中絶禁止は憲法違反ではないとの連邦裁判所の判決の批判を続けています。フェミニストとしては当然。

 

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