松沢呉一のビバノン・ライフ

片手を挙げて「さようなら」—生きているのか死んでいるのかもわからないNのこと[1]-(松沢呉一)

お盆スペシャル「生きているのか死んでいるのかもわからないNのこと」です。「ビバノン」としては異例の文章です。自分の事情による自分向けの内容なので、読まなくてもいいと思います。長いですし。読んで欲しい人物がいるとすると、この物語の主人公であるNです。

思い出に浸る癖があまりないため、記憶が強化されず、「詳しくは覚えていない」「記憶が曖昧」と特記していなくても、ここに書いていることはすべてあやふやです。そのあやふやな記憶をつなげるため、「たぶんこうだったのだろう」という推測は書いていますが、「創作」と呼べるような作り話は書いていません。

せいぜい3年程度の短い間だったとは言え、Nは自身を晒す仕事をしていたので、図版はいくらでもあって、うちにもあるのですが、もし今のNを知る人が「これは彼女のことでは?」と気づくのはよくないので、個人が特定される図版は一切出さないことにしました。なーんも入れないのは寂しいので、すべて彼女とはなんの関係もない代々木上原駅構内と駅周辺で撮った写真を適当に入れておきます。

 

 

Nが挨拶に来た

 

vivanon_sentence

8月9日。

 

代々木上原駅のホームのような場所。明るい日差しの中、やけに横幅の広い電車が停まっている。車両内に何人かが立っていて、その一人はNだ。彼女は夏らしからぬ黒いワンピースを着て進行方向に体を向けており、斜め後ろのホームにいる私を見ようとしない。電車が動き出して、彼女はこちらを見ないまま、左手を上げた。私はそれが「さようなら」の意味だとわかって、泣きそうになった。

 

そんな夢を見て目が覚めました。起きた私は夢の中の悲しみをそのまま持ち帰っていて、今にも泣きそうでした。

Nとは何も言葉を交わしませんでした。顔だって見えておらず、なのに、夢の彼女は疑いなくNであると私はとらえてました。不吉な夢でもあったので、誰かが「さよなら」を言いに来たのだとしても、きっとNではないだろうと納得しようともしたのですが、夢の中ですでに私は「Nが亡くなった」と確信してました。

目が覚めて時間が経ち、世界がくっきりしてくるとともに、「いやいや、そんなはずはない」と打ち消し、打ち消しながらも、Nが生きている確証を私は何も持っていないことに気づいて、途方に暮れるしかありませんでした。

交流がなくなったかつての知人たちでも、生きているか死んでいるかわからない人たちはざらにいるわけですが、あんな形で夢に出てこなければ、生きているか死んでいるのかを考えることもない。

Nに最後に会ったのは20年ほど前のことになります。彼女が住むマンションに行きました。それが彼女との最後のコンタクトであり、以来、電話やメールも一切しなくなってしまいました。

はっきり何かがあったわけではありません。むしろ何もなかったことがあの日を最後のコンタクトにしてしまったのではなかろうか。

私が連絡をしにくくなった理由と、Nが連絡してこなくなった理由は同じではないにせよ、同じ日のすれ違いみたいなものが原因だったと思うのですが、それも今となっては確認しようがありません。

当時の電話番号はもうわからないし、わかったとしてもたぶん使われていないでしょう。

彼女とつきあいがあった頃、すでにmixiなどのSNSはあったのですが、彼女はそういうものをやっていませんでしたし、以降、FacebookやTwitterなどでも見かけたことがありませんでした。

結婚して苗字は変わってしまっている可能性もありますが、念のために検索してみました。彼女の名前の通りの漢字ではさほどの数は出てこなかったのですが、数名の中に彼女らしき人物はいませんでした。

※午後8時台、代々木上原駅発の千代田線です。夢の中では明るい時間でしたが、角度はちょうどこんな感じ。車内は混んでいないのに、立っている人が何人かいました。

 

 

「亡くなった」と思った理由

 

vivanon_sentence他の人だったら、同じ夢を見ても、死んだことを連想したりはしなかったでしょうが、この夢がNの死と直結したのは理由があります。

最後に会った時、Nは手術をしたあとでした。手術は成功したのですが、再発もありえる病気です。

また、夢の2日前に聞いた言葉もおそらく関係しています。ヘルペスのかさぶたがまだ残っていたため、バイト先で風呂に入りにくく、バイトに行く前に、別の銭湯に行きました。純然たる客であればかさぶたがあってもそう失礼ではない。

そこを出て信号待ちをしていたら、後ろから、酒が入って上機嫌のじいちゃん3人組がやってきました。全員70代でしょう。町内会の会合の帰りか。

「亡くなった女房が夢枕に立つんだよ。生きている時はうるさいと思っていたけど、いなくなると寂しいもんだね」

亡くなってから間がないのでしょう。明るい大きな声でありながらも、寂しさの実感が篭った言葉でした。明るさに寂しさの混じる大きな声を聞きながら、「夫婦じゃなくても長年一緒にいた人が急に消えてしまうと夢にも出るもんだろうな」と思いました。

きっと町内会の会合では、そんな話はしにくくて、外に出てやっと聞いてもらいたい心のうちを語り始めたのでしょう。「女房が死んで、オレは寂しくて仕方がねえんだよ」と叫びたい。そんな勢いがありました。

そのじいちゃんの声だけが通りがよくて、それに対する二人の言葉は聞こえませんでした。

その言葉がきっかけになって、私にとっての誰かを考えたわけではなくて、このことが直接夢の形になったわけでもないのですが(たぶん)、信号が青になって歩き出してからも私はその言葉を頭の中で反芻して、「夢枕」という言葉は「夢に出てきたこと」を指すのか、「枕元に座っているなり立っているなりそこに存在するように見ること」を指すのか、どっちだろうと考えたりしてました。後者だと幽霊ってことです。どっちも指しつつ、一般には前者であり、あのじいちゃんも前者の意味で使ったのだと判断できました。

たまたま耳に飛び込んできた言葉でしたが、しばらく私の頭を支配していました。そのことがあったので、夢に出てきたNも死に向かうように感じられたのだろうと思います。

すぐにそのことを連想したわけではないけれど、長谷川博史さんや山本夜羽音の死がなお生々しさを保っているという事情もあったかもしれない。

 

 

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