あれから20年が過ぎた—生きているのか死んでいるのかもわからないNのこと[5](最終回)-(松沢呉一)
「乳がんになっちゃったよ—生きているのか死んでいるのかもわからないNのこと[4]」の続きです。
門前仲町へ
電話でも、下北沢で会った時も、彼氏とどうなったのか聞かなかったですが、「引っ越しは彼氏が手伝ってくれた」「病院は彼氏が立ち会ってくれた」といった話が一切なかったので、別れたのだろうとうっすらと受け取ってました。あえてする必要もなかったのかもしれないけれど、「今の彼氏」という話も出ませんでした。
下北沢で会った時、あんなに楽しかった記憶があるのに、なにも具体的なことは語っていなかったようです。楽しい会話は中身がないことが多いかもしれまない。
しかし、Nは中野のマンションを引き払って、門前仲町のおばさんの家に居候しているという話はしていたはずです。
このおばさんのことは時々聞いてました。たしか当時50代。独身主義で、結婚する気がなく、長い休みに旅行するくらいが趣味で、金を貯めて門前仲町のマンションを購入。
Nもおばさんの海外旅行につきそって、ニューヨークに行ったことがありました。Nが学芸大にまだいた頃だったのではなかろうか。代金はおばさん持ちです。私はトレーナーなんて着ないですが、その土産としてNはニューヨークのカフェで買ったトレーナーをくれました。着る機会がないまま、今も私はそのトレーナーを持っています。
しこりがあることに気づいて、検査をしたら乳がんで、すぐに手術ということになり、仕事も休まなければならず、おばさんが心配して、「うちにおいいでよ」ということになったのでした。
高層マンションの彼女の部屋は明るかった
下北沢で会って間もなく、門前仲町に行って、カラオケをしました。Nの家の近くまで行ったのは彼女が遠くまで出かけるのは大変だろうと思ってのことです。
彼女はあまりカラオケが好きではありませんでした。「歌っているより話していた方がいい」と言っていたことがあったと思います。そのため、それまでカラオケに行ったことはほとんどなかったはずです。
それでもこの時カラオケをしたのは、すでに彼女とは「つきあっている」という感覚が薄くなっていたからだと思います。2年ほど会っていなかったわけですし、その前から徐々にフェイドアウトしつつありましたから、当たり前のように「彼女の部屋に行く」という感覚は消えていて、もともと「メシを食いに行く相手」でもなかったので、「だったらカラオケだ」と。
この日はほとんど私が歌っていて、「そろそろ帰るか」という時間になったところで、彼女はこう言いました。
「今おばさんが旅行に行っているので、泊まっていってもいいよ」
おかげで帰りの時間を気にしないでカラオケをすることができました。と言っても、彼女の体のことがあるので、適当なところで切り上げました。
カラオケボックスを出て橋を渡ったところにマンションはありました。40階くらいありそうな高層マンションです。そんな高層だとは聞いていなかったので、少し気後れしました。高層マンションというだけで気後れする大人はどうかと思いますが、一般に富裕層が住むというところで気後れするだけでなく、私は高いところに住むことが怖い。高いところが嫌いなわけではなく、オフィスや展望台なら怖くないし、ホテルでも利用できますが、自分で住むのは「5階まで」。
エレベーターホールで見上げると、最上階まで吹き抜けになっていて、いよいよ気後れしました。
エレベーターに乗ると、Nは35階を押しました。そこにNが間借りするおばさんの部屋がありました。
もともとおばさんが一人で住んでいた部屋ですから、そんなに広くはない。と言っても、会ったこともない人の家ですから、つぶさに部屋を見たわけではなく、たぶん2DKだったと思います。
その一部屋をNは自分の部屋にしていました。相変わらず、家具や家電の類は少なかったのですが、前のように間接照明だけということはない。また、この部屋は窓の外が見渡せる分、殺風景ということはありませんでした。
2時頃にマンションに移動し、そのあとも少しは話したと思うのですが、彼女は「眠くなっちゃった」と言います。
仕事にもう復帰していて、翌日も仕事がありますし、無理はしない方がいい。
彼女はベッドに寝て、私は床にマットを敷いて寝ることになりました。
しかし、朝方に寝るサイクルの私としては、とても寝る気分にはならない。横になりながら、考えなくていいことを考え始めてしまいました。
乳房を切除したかどうかもわからないまま
なんでもズケズケと踏み込む私ですが、ここまで一度もNと乳房切除の話はしていません。乳がんの手術というと、乳房を切除するものだとの知識があるわけですが、つねに例外なくそうするものなのかどうかまでは私は知りません。
胸のあたりをチラッと見たりはしたのですが、もともと彼女は胸が小さいので、見てわかるようなことはありませんでした。
乳房の切除をした女性が、そのことで女ではなくなってしまうような不安や恐怖を感じるという話をよくしています。直接の知り合いではなく、テレビや雑誌の話ですが。
もし切除したのであれば、結婚もしておらず、子どももいないNはとくにそのことを気にしていたでしょう。だからこそ踏み込めなかったのですが、彼女が私をここに呼んだのはセックスのためではなかったか。しばらくセックスをしていなかったので、性欲を発散したいといった単純なことではありません。
これからまだまだ彼女は恋愛もするし、セックスもする。その時に、乳がんになったこと、乳房を切除したことを事前に伝える必要があるのかどうか。伝えた場合に相手は去っていくことがあるのかどうか。伝えなかった場合は驚いてセックスに至れないことがあるのかどうか。
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