松沢呉一のビバノン・ライフ

女湯に巣食う主(ぬし)を追い出す方法—女湯社会に抗うにせぽよ[下]-(松沢呉一)

出入り禁止になった銭湯にめげずに通う—女湯社会に抗うにせぽよ[上]」の続きです。

 

 

女湯ははみ出し者を排除する

 

vivanon_sentenceにせぽよはメンタルが強いのか弱いのかよくわからんところがありますが、タトゥのためにやんわりと出入り禁止にされた銭湯になお行き続けて、既成事実化させているという話を聞いて、この夏、私も数年ぶりにその銭湯を再訪しました。狭くて天井が低いのは記憶通りだったのですが、清掃が行き届いていました。毎日湯を入れ替えて、毎日清掃していると思います。

夜の9時頃でしたが、5、6人の客がいて、定石通り、男湯では誰一人話しておらず、女湯からは絶えず会話が聞こえてました。そういうもんです。

男湯には刺青の客がいるのに、女湯ににせぽよが入ることを嫌がるのは、会話のあるなしと関わっています。

女湯では洗い場でも脱衣場でも会話が盛んに交わされるのに対して、男湯では銭湯の外での知り合い同士による会話が交わされる程度で、それも多くの場合は脱衣場や待合室で見られるだけです。若い世代は浴槽のヘリに腰掛けて長時間話し込んで迷惑がられていることもありますが、たいていの場合、常連同士でも洗い場では軽い挨拶が交わされるだけです。

つまり、外の社会の関係が持ち込まれつつも、銭湯の中ではただの「裸の人間」として互いを尊重したいという気持ちが働いているように思います。どんな仕事をしていて、どんな役職かはどうでもいい。そういった社会的役割や地位が銭湯内でも継続する関係以外では、むしろ、まとわりつくものを外したい。

誰もが裸のフラットな存在である男湯における例外は銭湯の人です。私も半分銭湯の人なので、バイト先の風呂に入っている時もフラットではないと自覚しています。

さまざまな銭湯で、とくにおばちゃんに対しては心を許して、フロントや番台で職場での愚痴を言っている男性客を見かけることがあります。おじちゃんやおばちゃんは対等の関係ではなく、客とは別のところにいる存在であり、時に皆を睥睨する場所にいる支配者です。

これが男湯の人間関係の作られ方であり、男たちはこれを楽だと感じます。だからタトゥが入っていても気にしない。本当は気にしている人がいるかもしれないけれど、口には出さない。そこで口出しをしだすと、フラットな快適さが失われる。

しかし、女湯ではそうならない。洗い場でも積極的にコミュニケーションをとり、人間関係を作ろうとします。女湯では濃密な関係とそれに基づく階層ができあがり、これが時に排除という形で表れるのです。タトゥの客を排除しようする。それがうまくいかないと支配者たるおじちゃんやおばちゃんに排除を依頼します。

※本文の銭湯とは無関係の写真です

 

 

女湯の主(ぬし)

 

vivanon_sentence高円寺パンデットであったイベントでも、女湯の主(ぬし)の話がたびたび出てきましたが、この主の存在が女湯を象徴することがわかってきました。

男湯でも主(ぬし)のような存在は見かけます。毎日同じ時間帯にやってくる。だいたいいつも同じ場所にいます。常連さんたちはそのことを知っているので、そのカランは使わない。

しかし、そんなことを知らない人たちはその席を使います。そんな時は主はその近くのカランを使います。「指定席」を確保することは困難なのです。

対して、人間関係の濃い女湯では、主の位置づけにもっと重みがあります。

 

 

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