松沢呉一のビバノン・ライフ

アニメが先か原作が先か—公開から6年経って観たアニメ「聲の形」[2]-(松沢呉一)

歳をとると涙もろくなるのはなぜか—公開から6年経って観たアニメ「聲の形」[1]}の続きです。

 

 

アニメではカットされた部分の痕跡で当惑する

 

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そもそもアニメ「聲の形」を観たのは、「どうして私はそうも泣くようになったのか」を明らかにするためであり、期待通りに泣きまくり、答えにつながるヒントがこのアニメにはあったのですが、これについては先にやるとして、なぜ私はそうもこのアニメを繰り返し観たのかを確認しておきます。

こんなことは初です。原則映画は一回観て終わり。観てから時間が経って、二度目、三度目を観ることはありますが、続けざまに何度も観て、そのたびに泣いた経験は初。「火垂るの墓」がいかに泣けても、繰り返し観たいと思いません。辛いだけ。

対して、「聲の形」は、何度でも観たくなる。「悲しい映画」という評も見かけますが、逆です。「喜びの映画」です。理解できなかった箇所を確認するためにもう一度観ることがなんら苦ではありませんでした。

なぜそうも理解できない点があるのかと言うと、情報量が多すぎるのです。そのわりに説明が十分ではない。それもそのはずで、原作は全7巻あって、アニメになったのは3巻分くらいか。半分以上はカットされています。

エピソードはカットされていても、そのエピソードから派生した別のエピソードは残っていたりするので、「どういうこと?」になります。人物も同じで、その人物を十分に説明するエビソードがカットされているために、「こいつ、誰?」になります。

アニメはアニメだけで完結するように作られているのですから、そういう点があるのは失敗かと思うのですが、結果としては原作まで読むことになったので、いい機会を提供してくれたってことで。

 

 

人を理解することの難しさをアニメと原作で体感できる

 

vivanon_sentenceもうアニメを観た人も少なくないでしょうが、「より理解したいなら」という前提で、原作も読んだ方がいいです。

アニメをまだ観ていない人の中には「だったら先に原作を読むか」と考える人もいるでしょうけど、原作は数多くの登場人物の間を力点が移動していき、「ここでは何が進行しているのか」がちょっとわかりにくいかもしれない。

私がそうしたので、それがいいと感じているだけかもしれないですが、アニメで全体をつかんでから、原作で細部を知るという順番がスムーズだろうと思います。

これをやることで、この原作およびアニメがテーマとしていることを自分自身で体験できます。そのテーマは「いかに他人を理解することが困難か」ってことです。

一回アニメを観た段階で理解したと思っていたことが、二回目、三回目となるに従い、「あ、違ってた」「こういうことか」といった発見が連続し、さらに原作を読むと、それが鮮やかに説明されていたり、アニメではまったく見えない背景が見えてきます。

とくに将也、硝子、植野は私の中でどんどん人物像が変化してきました。いかに彼らを理解することは困難かがよくわかりますが、1回で終わってしまうと、理解できていなかったことにも気づけない。

 

 

舞台は岐阜県大垣市がモデル

 

vivanon_sentence公開されてからずいぶん時間が経っていて、観た方々も忘れているでしょうから、基本となる設定についてまず説明しておきます。

 

 

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