松沢呉一のビバノン・ライフ

新型コロナは「やりまんハンター」のために仕組まれた壮大なプロモーションだった—「聲の形」と「やりまんハンター」[下]-(松沢呉一)

「ヤリマン映画の傑作」との呼び声高い「やりまんハンター」完成—「聲の形」と「やりまんハンター」[中]」の続きです。

 

 

新型コロナの登場を予知していた作品だったのに、完成が遅れたため、「話題のネタを取り込んだが、タイミングが遅すぎた作品」にしか見えない

 

vivanon_sentenceやりまんハンター」は、世界のトレンドと無関係なところで芸をやったり、イベントをやったりしてきた横須賀歌磨呂福田光睦とががっぷり組んで、世界のトレンドとかけ離れたところで作り出した映画のようなイメージを抱いている人が多いかと思います。

大きな誤解です。世界のトレンドと無関係な芸人とイベント主催者ががっぶり組んだら、世界のトレンドのまっただ中に位置する作品になりました。新型コロナの真相を暴く内容なのです。

惜しむらくは、コロナ禍がほとんど終わってからやっと完成したことです。誰もが「なるほど、新型コロナでインスパイアされたのね」と思ってしまいますし、大半の人が「それはいいとして、遅すぎだろ」と感じるでしょうが、それとはなんの関係もなく構想された作品です。コロナ禍の前に公開されていたら、新型コロナで「今の時代を予言していた」として世界的に大ヒットしただろうに、惜しいことをしました。

そのことを含め、今回は書かなくてもいい蛇足ですので、飛ばしていいです。

前回、「やりまんハンター」が完成したと書きましたが、正確に言うと、試写会の段階でもまだ福田監督は手を加えていて、最終版ではありませんでした。「撮り直しが必要」「音がまだ入っていない箇所がある」というレベルではなく。十分に鑑賞に耐えうるところに至ってましたが、長すぎるために、カットしている作業がまだ続いていました。

そうしなければならないのは、観ればわかります(公開される最終版だとどうかわからんですが)。その段階では2時間以上ありましたから、「聲の形」と一緒。試写会のあと、すぐさま福田監督に「長い」と伝えました。最初の感想がこれ。

原作にふんだんに盛り込まれたエピソードを大量に削っても削りきれずに長くなってしまった「聲の形」と違って、「やりまんハンター」が長いのは、「あの人も出したい、この人も出したい」と横須賀歌磨呂、モダンフリークス、ロフトプラスワン周辺の人々をピックアップし、その人たちのための出番を作ったことが原因になってます。あれだけの人数を出すとなれば長くなります。ほとんどの出演者がギャラなしで出ている友情出演みたいなものですから、撮ってから削ることは難しいでしょう。

「やりまんハンター」公式サイトより、そうは見えないでしょうが、感動のラストシーン

 

 

「やりまんハンター」の難点

 

vivanon_sentence長くなったもうひとつの理由は、おそらく横須賀歌磨呂の美学に起因するくどさです。

舞台でネタをする場合、冗長になるとリアルタイムに客の反応でわかりますし、多くの場合出演時間に制限があるので、彼のコントを観ていて、無駄に長いとは思わないですが、彼の芸の根底にあるのは、観ている人を裏切りたいとの思いです。

エロではないネタもできるだろうに、売れることを拒否するかのように露骨すぎる下ネタをやり続けてきたのもその思いの強さゆえでしょうし、虚構性が強いのもそこに通じていましょう。

そこは彼の芸の魅力だったりするのですが、時間制限のない映画ではセーブするものがなく、その思いが「くどい」に至ってました。

とくにエンディングはどんでん返しが繰り返されていて、せっかくのネタばらしがかすんでしまっていたので、具体的なシーンを挙げて「削った方がいい」と福田監督に伝えました。

 

 

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