松沢呉一のビバノン・ライフ

仁藤夢乃の頭ん中にはフェミニズムと無関係な差別的発想が詰まっている—Colabo✖️暇空茜[傍流編25]-(松沢呉一)-[無料記事]

音喜多駿参議院議員による質問主意書の重要ポイントと、矯風会が仁藤夢乃に見出した重要ポイント—Colabo×暇空茜[傍流編24]」の続きです。

 

 

見えないものが見えてくる仁藤夢乃の特殊能力

 

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弁護士がズラリと雁首揃え、議員会館を使うことで議員も背後にいることを匂わせて、「訴えてやる」と派手にやって、応援団に名のある人たちの名前をズラリと並べれば、暇空茜はひるみ、世論は自分らの味方になると思い上がったのが仁藤夢乃≒Colaboの誤算だったわけですが、このミスを反省している様子はなくて、弁護団とともに次から次と自ら面白ネタを提供し続けています。

周辺の人たちは相変わらず、「住民監査請求監査結果」も読まずに勝利宣言を信じ、「赤旗」と「朝日新聞」を鵜呑みにしているような人たちばかりなので、自分らが追い込まれつつあることの実感がないんですかね。

おかげでYouTuberたちの広告収入が激増しているので、いよいよ批判が増えて、新たな問題が浮上する悪循環。「ビバノン」もアクセス激増。アクセスが増えると登録が増えるという関係にはないので、その点ではメリットがないですが、仁藤夢乃のようなタイプの自称フェミニストの精神構造をわかりやすく見せてくれてる点では、素晴らしい存在です。引き続き薄っぺらな発言を続けて欲しい。

 

 

 

女には[「すごい」と「やばい」だけで乗り切れなくなってきた。]、男には[忙しいを言い訳に、この年まで来てしまった。]というコピーがついていることをミソジニー広告だってさ。

このあと男女が入れ替えられたヴァージョンになっているのですが、クレーマー対策ではなくて、もともと男女を入れ替えたヴァージョンもあって、どちらでもいいようになっている広告だったようです。

1月26日午前9時現在も、こうなっています。

 

 

 

男女等しい扱いのコピーだったわけですが、世界を平板に見て、他者を愚弄することを売りにしてきた仁藤夢乃にとって、事実を確認することはただの無駄ですから、思い込みだけを暴走させています。こんなことをやり続けてきた人物に事業を委託していいはずがないでしょう。

日経はこういう図版も出しています。

 

 

これを噛み締めて、なぜ自分がこんなミスをしたのか反省して欲しいものですが、それもこの人はできそそうにない。プライドが高いというだけでなく、支持者を集めてしまっているためです。誤解に基づいた糞ツイートに3,500人もの同類の人々が「いいね」をつけています。その手前、間違いを認めて謝罪することはできないでしょう。間違いを認める体験を重ねれば、もっと丁寧に調べ、考えなければならないことを学ぶんですけどね。

 

 

自身の中にある「女子供バイアス」を疑えない人がフェミニストを自称する滑稽

 

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とくにこのケースは、仁藤夢乃とその同類たちのどこがどう狂っているのかを説明するサンプルとして最適です。

彼女は男と女という属性で、まったく別種の存在として認識しています。性別を取り出せば別種ですが、多くの人は性別をそこまで強くは意識しません。

「すごい」と「やばい」だけで乗り切れなくなってきた。]というコピーを見ると、それが男であれ女であれ、「確かに若い頃は語彙が少ないよな。今だと“すごい”と“やばい”と“チョー”をよく聞くな」といったように、「いつの時代にもある若い世代の特徴」あるいは「今の若い世代の特徴」としてとらえて、その上で「気づいただけ進歩だ」といった感想を抱きます。このコピーが示す通り、男であれ女であれ、時の変化、年齢による変化を読み取って、どこまでも性差を意識しないことの方が多いのではないでしょうか。

対して仁藤夢乃とその類似品は、真っ先に性別で人を見ます。この時の男はつねに「加害者」であり、女はつねに「被害者」です。「忙しいを言い訳に、この年まで来てしまった。」が女の写真に添えられていたら、「“この年”は結婚適齢期を意味していて、女に結婚を強いようとしている」なんてことを言いそうです。

写真の表情が違うことから、「女はいつでも笑顔でいなければならないと強いている」と言いそうですが、これが逆でも、「年齢が加わったことを女の方が深刻にとらえなければならないというメッセージだ」とか言いそう。

どれにしても、自分の中にある構図に当てはめます。自分を世界に投影して理解した気になる。何も理解できていないのに。

この構図こそ、長年蓄積された道徳に基づいています。「女は無能で無力であるから、子どもと同じく社会が守ってやらなければならない」という道徳です。「男は有能で力があるから、自分の身は自分で守ることができるので、ほっとけばいい」という考え方と対になってます。

この道徳に基づくとらえ方を私は「女子供バイアス」と言っています。私の中にもこのバイアスがあって、「小学生が交通事故で亡くなった」というニュースを聞いた時に、その小学生が男児より女児の方が痛ましく感じます。

「女子供バイアス」が強い人たちは、成人した男女にも、こういう見方を投影します。仁藤夢乃がまさにそうですが、ホストクラブにはまる女はホストの被害者。あるいは男社会の犠牲者。対してキャバクラにはまる男は自業自得だし、自分で解決できる能力があるので、ほっとけばいいと考える。この発想こそが男女の不均衡を作り出しています。

言うまでもなく、性別でまったく違う見方をするのは差別の根幹にある発想です。しかも、「女は無能で無力」という見方も疑いなく差別的です。それすら自覚できないくらいに、道徳による差別意識が内面化し、感情化しています。

この姿勢は、仁藤夢乃だけでなく、広く糞が頭につくタイプのフェミニストに見られることであり、こういうタイプの人たちが生み出しているのが「サイレント・エピデミック」です。この辺についてはさんざん「ビバノン」に書いてきましたが、矯風会の流れで改めて説明すっかな。

続きます

 

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