「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

武田邦太郎は何を見たのか~山桜と靖国


「都市解体 農工一体 簡素生活」の文字が刻まれた石碑

「都市解体 農工一体 簡素生活」

 久しぶりに荒れた日本海を見た。
 新潟から「特急いなほ」で北上する。車窓に映るのは暗雲の下でうねる荒波だった。初夏にしては珍しい光景だ。
 波と風雪によって侵食された断崖、奇岩に目を奪われると寝ている暇などなかった。3時間ほどで酒田(山形県)に到着し、そこからレンタカーでさらに鳥海山麓の遊佐町へと向かう。
 会いたい人はすでにこの世にいない。
 武田邦太郎──石原莞爾の側近としても知られた彼は、60年代に池田勇人総理の諮問機関・新農政研究所で農政部長を務め、後に赤城宗徳農林大臣顧問、田中角栄内閣では日本列島改造問題懇談会委員、さらに三木武夫内閣でも国民食糧会議委員等を委嘱された。90年代初頭には日本新党の旗揚げに参加し、同党参議院議員も務めている(1期)。
 私としてはその政治遍歴にさほどの興味もなければ、強いシンパシーを感じることもない。
 だが、晩年の武田を何度か取材した私は、その人柄と、禅問答のようにも感じた言葉の端々を、いまでもよく思い出す。
 自宅はそのまま残っていた。いまは武田の娘さんが管理しているという。
 武田は201211月に99歳で亡くなった。
「あと一か月生きていれば、100歳迎えるところだった」と近所に住む歌川博男氏は残念そうに話した。
 裏山の頂に石原莞爾の墓がある。武田は「墓守」として毎朝の参拝を欠かさなかった。墓に続く細い山道にはロープが張ってある。もともとこの山林を持っていた桐谷誠の夫人、敏子さんのために張られたものだ。敏子さんは目が不自由だった。このロープを伝って、やはり毎朝、墓に手を合わせていた。その敏子さんも7年前に亡くなっている。

 頂には土まんじゅうのような墓が建つ。
 石碑には「都市解体 農工一体 簡素生活」の文字が刻まれていた。石原が理想とした社会である。
 実は、近くの山にはもう一か所、石原の墓がある。国道拡張工事のためにもともとあった墓所を移動させる話が持ち上がり、国道を挟んだ向かいの山の頂に新墓所を造った。しかし、結果的に拡張工事は旧墓所にまで及ばなかったため、二つの墓が存在してしまった。
 いま、「石原詣で」する人の多くは、車で直接に乗り入れることのできる新墓所に向かう。旧墓所は地元の人だけが訪ねる場所として、ひっそりとたたずんでいる。
 新墓所には訪れた人のための参拝ノートが置かれていた。
 1ページ目をめくってみると、いきなり「朝鮮人、支那人」といった文字が視界に飛び込んできた。
「いま、日本の教育は朝鮮人や支那人によって歪められ……」「いつの日か朝鮮人や支那人を追放し……素晴らしい日本を取り戻す日が来るまで見守ってください」
 万緑の世界が、突然、汚泥で塗りつぶされたような気分となった。
 こんな場所にも薄汚いネトウヨが来るのだろう。
 さらにページをめくる。別の者がさらにマス目を汚していた。
「中国人、朝鮮人は嘘のかたまりです」
 この人たちはいった何を訴えたくて墓所まで足を運んだのか。
 便所の落書きにも劣る下卑た文言を書き連ねることが石原莞爾の慰霊になるとでも思っているのか。
 私は石原莞爾にさほどの思い入れもない(それどころか満州事変を引き起こし、結果的に日本のアジア侵略を促した存在であることは批判的にとらえている)。しかし内実はともかく、「五族共栄」「民族協和」の精神を唱え、「東亜諸民族の団結と協力で世界平和を目指す」というのが石原の持論だった。だからこそ朝鮮半島の植民地統治にも反対したのが石原という人間だった。
「墓守」をしていた武田は、かつて私にこう話している。
「ごくたまに勘違いした右翼がここを訪ねて、気勢を上げたりしているが、不快でしかない。軍歌を流した街宣車が来た時には追い払ったこともあった」
 そう言いながら武田は杖代わりに手にしていた木の枝を頭上に振り上げて悪戯っぽく笑った。

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