「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

戦前の「日本を、取り戻す。」—大日本帝国憲法「復元」を決議した町を訪ねて

 

 当時の「大日本帝国憲法復原決議」議案書

 薄日に照らされた中国山地を見上げると、頂の部分は雪に覆われていた。冷気をたっぷり含んだ空気が肌に突き刺さる。山間の町は、すでに冬支度を始めていた。
 岡山県勝田郡奈義町──鳥取県境に接する人口約6千人の小さな町だ。町面積のほとんどは山林と原野で占められる。鉄道駅も高速道路のインターチェンジもない過疎地だ。
 この街が、かつて一度だけ、日本中の注目を集めたことがあった。
 1969年のことである。同町議会で「大日本帝国憲法復原決議」(原文ママ)が可決されたのだ。日本国憲法を破棄し、明治時代に制定された大日本帝国憲法を「復元」させよ、というものだった。
 強調しておく。「改憲」ではない。明治憲法の「復元」である。
 当然ながらメディアは大騒ぎした。地元紙はもちろん、東京からも週刊誌やテレビ局の記者が駆け付けた。

アッと、おどろく議決をやってのけた

 そう書いたのは『週刊文春』だった。

畑とタンボが延々つづくのどかな村の寄り合い世帯だが、ここにトツジョとしてふってわいたの明治憲法復元の決議

秋のとり入れのまっ最中におこったお百姓さんたちのきくもナミダの明治憲法異聞

 どこか小馬鹿にしたようなトーンとなっているのは、耳慣れない農村の議会だったからだろう。


当時の『週刊文春』記事

奈義町役場

 それにしてもなぜ、大日本帝国憲法復元を訴えたのか。
 町議会事務局を訪ねると、当時の決議提案理由書が残っていた。
 同書にはまず、日本国憲法を憲法として認めることのできない理由が示されている(以下、引用はすべて原文ママ)。

現行日本国憲法は、その内容に於て全く戦勝国が占領目的遂行のため、仮に憲法と称する行政管理基本法にすぎないものであることは、議員各位既にご承知の通りであります

1952年に)日本は独立したのであるから、大日本帝国憲法を卸し復活すべきものを、そのまま二四年間放置し今日に至った

 いわゆる「(米国からの)押しつけ憲法論」だ。
 さらにこの「押しつけ憲法」が、日本に様々な「弊害」をもたらせていると説く。

大学暴動を始めとして、今や国内は収拾しがたい無法状態となった

主権在民の民主主義を奉ずる英、米模倣の国家形態となりながら象徴天皇を戴く、木に竹を継いだような国体を出現し、言論の自由をはじめとして、思想、信教、学問、表現の自由と、個人の権利のみ優先し、国権の衰退は眼を覆うものがあります

吾国に住居して日本の保護を受けながら、その日本を仮想敵国ち公言し、日本打倒の目的を以ってする朝鮮大学校を始めとして国内に小、中、高校等無慮数百の反体制教育施設も、占領憲法第二十三条により自由とする

 人々の自由よりも優先されるべき「国権」があると主張し、そのうえで民族教育を「反体制」だと切って捨てる。
 続けて同書は「思想の自由」「表現・言論の自由」は「罵詈雑言の自由にもつながる」とし、現行婚姻制度も伝統的な家族制度を「抹殺する」、ストライキを認めた「勤労者の団結権」も「従来は非合法」であったはずだと嘆いてみせるのだった。
 事実誤認も含めて、これもまた、現在の右派的改憲論者の訴えと重なるものだ。差別的、排外的な物言いも同様だ。
 だが、くどいようだが、目指すべきは「改憲」ではなく明治憲法の「復元」だった。
 同書では現行憲法を「万悪の源」と位置づけ、「菊花薫る道義国家日本の再建」のためには「明治欽定憲法復元以外に無し」と結ぶのであった。
 ちなみに町議会(定数17議席)では、この提案を10対7で票決した。議会事務局で議事録を確認すると、保守系議員からも同提案に疑問が相次いでいたことがわかる。
「改憲決議ならば賛成するが、旧憲法復元には意味がない」
「本来、国会で議論されるべきものではないのか」
 もっともな意見ではあるが、2時間の質疑を経て、議案は可決した。
 こうして山間の小さな町が決議した「大日本帝国憲法復元」は、たちまち世人を騒がせることとなったのである。


長閑な田園風景が続く奈義町

「まあ、とんでもない決議をしてしまったものだと、後悔する議員も多かったと聞きますよ」
 そう話すのは当時を知る町民のひとりだ。
「予想以上にメディアが大騒ぎしたことで、変な形で町の知名度が高まってしまった。時代に逆行するかのようなイメージを世間に与えてしまったんですね。それを恥ずかしく思う町民も少なくなかった」
 実際、決議直後の取材が殺到した当時の町議会議長は、各紙に対して「もう少し慎重になればよかったかもしれん」などと、後悔ともとれる言葉を残している。
 また、議決直後に町の広報紙が企画した「地元中学生と町長の座談会」でも、中学生から「旧憲法復活のことを町長さんはどうお考えですか」と問われた久永茂町長(当時)は、「地方公共団体としての意思決定とは考えられません。必ずしも執行しなければならないとは思いません」と、なにやら火消しに懸命なのであった。
 ならばなぜ、議決してしまったのかと訝しむ向きもあろうが、「時代背景も影響した」と振り返るのは、当時の町役場関係者である。
「そのころ、町の一角を占める自衛隊演習場(陸上自衛隊・日本原演習場)に、各地から学生の反戦グループが集まり、演習反対の運動を展開していたんです」
 69年といえば、「70年安保」を控え、学生運動がもっとも高揚を見せた年でもある。
「こんな小さな町にヘルメットをかぶった学生たちが押し掛けてきたものだから、保守系の人たちは恐怖感を持ったんでしょうね。都市部では見慣れた光景だったかもしれませんが、こんな田舎町では革命前夜でもあるかのように感じた人も少なくなかった。明治憲法の復元は、そうした恐怖感、危機感の表れだったと思います」
 だからこそ前述した「提案書」にも、「共産革命の陰謀を粉砕し、亡国の危機に直面する祖国を護る」といった文言が見られるのである。

 ところで、取材を進めていくと、議決の立役者ともいうべきひとりの人物が浮上した。

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