「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

「植村裁判」とは何なのか──札幌地裁口頭弁論を傍聴して(前編)

植村裁判、直接対決の日

 意外に感じる向きもあるだろう。実は、植村隆氏(元朝日新聞記者)は坂本龍馬の研究家でもある。
 朝日新聞の北海道支社報道センターに勤務していたころは、坂本龍馬一族のその後を追った長期連載記事「北の龍馬たち」(2010年~2011年)を手掛けた。
なかでも植村氏を惹きつけたのは、龍馬の甥にあたる坂本直寛だ。
 直寛は自由民権運動に参加し、後にキリスト者となる。「自由と平等」を訴え、これを反政府運動とみなす政府からは危険人物扱いされ、投獄された経験も持つ。40代になってからは北海道に移住し、伝道活動に奔走した。
 南国土佐から北の大地へ──その軌跡は植村氏の人生とも重なる。
 前述した「北の龍馬たち」で、植村氏は次のように記した。

直寛は世の流れに妥協せず、気骨ある生き方を貫いた。信仰を持ってから、世の政治家とは異なった意見を主張するようになったと自伝に書いている。
「そのことで損をすることも多かったが、私は損をすることを以(もっ)て、みずからを尊しとしたのである」
 直寛は自由と平等を訴えて藩閥政府と闘っただけでなく、自由民権家の中にある「官僚主義的傾向」も批判した

 妥協を知らず、自ら損することを引き受ける直寛の生きざまに、植村氏は惹かれたのであろう。
 器用さに欠けるといった点では、植村氏にも通ずるところがある。
 植村氏はけっして「辣腕」「切れ者」といったイメージを周囲に与えることはない。
「闘志」にもほど遠い。「闘う」ことを好むわけではないが、「闘い」を避けるすべを知らない人ではないかと思う。愚直で直線的。水面に描かれた波紋ではなく、池に投げ込まれた石を取りに行くタイプだ。
 ずぶ濡れとなった植村氏を人々は嗤う。泳ぎ方がなっていないと悪罵をぶつける。池の淵で。安全な場所で。池に飛び込む度胸もないのに、描かれた波紋の解説に血道を上げる。
 そうした人々と、植村氏は闘わざるを得なかった。記者として生きてきた時間を否定されることを看過できなかった。
 つかみとった石を最後まで離さなかった。

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