「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

日本の海底に沈められた朝鮮人労働者たち 長生炭鉱水没事故から80年

 昨年に引き続き、今年もまた宇部市(山口県)の床波海岸を訪ねた。

 2月12日──同地で「長生炭鉱水没事故犠牲者追悼集会」がおこなわれた。今年は水没事故から80周年。節目の年である。

 コロナ禍にあって、韓国に住む犠牲者遺族の来日は叶わなかった。それでも地元の人を中心に約150人が参列し、亡くなった朝鮮人・日本人労働者らを追悼した。

 1914年に開坑した長生炭鉱は周防灘の沖合に位置する海底炭鉱で、終戦時まで操業を続けた。最盛期には年間15万トンの石炭を産出している。

 同炭鉱で大惨事が発生したのは日米開戦の2か月後、1942年2月3日のことである。沖合の坑道で落盤が発生し、海水が一気に流れ込んだ。その瞬間、海面からは巨大な水柱が噴き上がったという。海底の坑道に逃げ場所はない。炭鉱労働者は瞬時にして真冬の冷たい海に飲み込まれたのだ。

 事故についての詳細は昨年の記事を参照してほしい。

炭鉱事故が遺したものは何か

 犠牲者は183人。そのうち136人が朝鮮人労働者だった。

 『宇部市史』には「長生炭鉱への朝鮮人強制連行と水没事故」と小見出しが付けられた以下の記述を見ることができる。

 長生炭鉱は特に坑道が浅く、危険な海底炭鉱として知られ、日本人坑夫から恐れられたため朝鮮人坑夫が投入されることになった模様であり、その当時「朝鮮炭鉱」と蔑称された

 朝鮮炭鉱──その呼称こそが、当時の国策産業の実相を示していよう。

 労働者の安全よりも生産拡大が優先された。それが戦時増産体制というものだった。

 「もともと、法令違反が指摘されていた炭鉱だった」

 そう話すのは、追悼式の主催者「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」のメンバーである。

 「当時の保安基準によると、海底下40メートル未満の場所では採掘が禁止されていた。しかし長生炭鉱は海底30メートルで採炭していたのです」

 定められた水深よりも浅い場所であったがゆえに海水の負荷に耐えられず、落盤した。実は事故以前にも幾度か坑内出水が確認され、事故が予見できたにもかかわらず、炭鉱側は何の対策もとっていなかった。

「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」による事故当時の坑道の図

 実際、同炭鉱の経営者だった頼尊淵之助は戦後、「大きな水没事故を起こし、大きな犠牲者を出したのは、私が法律違反をして採掘したためであり、山口地方裁判所に記録が残っている。私が悪いのであります」と話したことが記録に残っている(保安基準規制強化に反対する会合での発言)。

 頼尊は東京帝大採鉱科卒のインテリ技師だった。長生炭鉱以外にも複数の炭鉱を経営し、石炭を海軍に収めて巨富を得た。妻が岡田啓介(元首相、元海軍大臣)の妹であったことが、経営者としての素地を固めたともいわれる。同時に、違法操業を可能としたのも、軍・官・業の一体化、さらには人命軽視の戦時体制によるものであったことは間違いない。同じ宇部地域の中でも、朝鮮人労働者の割合が極めて多かったのは、植民地化朝鮮出身の労働者であるからこそ危険な作業を強いることができるといった差別の存在抜きには語ることができないはずだ。

 過酷な労働ゆえに逃亡する朝鮮人労働者も少なくなかった。水没事故より3年前に発行された特高警察の内部資料『特高月報』(1939年11月・12月号)には、同年10月に長生炭鉱で17名の朝鮮人が逃亡するも会社の労務係に捕まり事務所で殴打された、との報告がある。

 日本の植民地主義と朝鮮人蔑視は、職場離脱を暴力で封じた。過酷で危険な労働現場に押しやった。そして、命を奪った。

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