「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

またもデマは繰り返された 踏み躙られ続ける沖縄と切実な思い

(撮影・筆者)

 またしても沖縄・普天間基地をめぐる誤情報がネット上を飛び交った。

 発信源は辺野古新基地建設に反対する「座り込み」へのSNS投稿が批判されている「2ちゃんねる」開設者のひろゆき氏だ。

 10月9日配信されたYouTube番組で、彼は普天間基地について次のように発言した。

 「まあ沖縄の場合はもともと普天間の基地があって、普天間の基地の周りに住宅をつくっちゃったんですよね。普天間の周りってもともと何もなかったところなんですけど、基地の需要があったりして結果として住宅街ができてしまった」

 結論から述べたい。

 まったくのデマである。しかも手垢のつきまくった「定番デマ」だ。

 デマの流布は、これまで幾度となく繰り返されてきた。

 2015年6月25日、自民党の若手国会議員らが党本部で開いた勉強会「文化芸術懇話会」における作家・百田尚樹氏の発言などは記憶に新しい。

 懇話会の講師として招かれたの百田氏は、「沖縄のふたつの新聞社はつぶさなあかんのですけど」と沖縄紙批判をぶち上げた後、こう続けた。

 「もともと普天間基地は田んぼの中にあった。周りに何もない。基地の周りが商売になるということで、みんな住みだし、今や街の真ん中に基地がある。騒音がうるさいのは分かるが、そこを選んで住んだのは誰やと言いたくなる。基地の地主たちは大金持ちなんですよ。彼らはもし基地が出て行ったりしたら、えらいことになる。出て行きましょうかと言うと『出て行くな、置いとけ』。何がしたいのか」

 また2010年にはケビン・メア在沖縄米国総領事(当時)も「基地は田んぼの中にあった」と発言している(彼はその以前にも「沖縄はごまかしの名人」「怠惰でゴーヤーも栽培できない」などの差別発言を連発していた)。

 そしてこのたびの、ひろゆき氏による発言。

 「座り込み」問題から始まった一連の嘲りと冷笑に関しては、すでに多くの批判と反論があふれている。端的に言えば、私はこうした「笑い」が嫌いでたまらない。とことん軽蔑する。当然じゃないか。切実な思いを知ったふうな理屈で小ばかにされて、落ち着いていられるわけがない。あらゆる理不尽に対して、人は時に、地の底からわき上がるような怒りをぶつけることがあるのだ。そこに嘲笑で応じる傲慢さは、ただひたすらに腹立たしい。醜悪な「笑い」に、背中が強張るほどの憤りを感じた。

 だが今回は「普天間デマ」に限定して報じたい。

 ひろゆき氏の発言は前例同様、事実を無視し、あるいは調べることを放棄し、ネットで拾ったであろういかがわしい情報を鵜呑みしたものとしか思えない。

 普天間基地のある場所は戦前、宜野湾の中心地だった。役場があり、学校があり、市場があった。約9千もの人々が生活を営んでいた。

 「何もなかった」場所に基地ができたのではない。集落の人々が追い出され、そこに基地がつくられたのである。

 これまで取材を重ねるなかで、私がはっきりと意識したのは、沖縄の基地は地元の人たちが望んだものではない、ということだ。

 またも繰り返されたデマに接し、あらためて確信した。

 沖縄の基地問題の本質とは、まさにこうした人々の言説に一定の支持が集まる「本土」からの視線である。

 冷笑、嘲笑、そして中傷とデマと偏見と。

 つまりは「差別」の問題でもある。

 あまりに基地が多すぎる、沖縄ばかりに基地が集中している──ただそれだけのことを訴えているのに、なぜにこうも沖縄は、あるいは真剣に闘っている人が、バカにされなければならないのか。

 国土面積の約0.6%しかない沖縄県内に、全国の約70%の在日米軍専用施設・区域が集中している現実をどう考えるのか。

 私は2016年に『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)を書いた(その後、文庫版が刊行)。そのなかから普天間基地について触れた部分を、一部改変して本サイトに残しておきたい。

 なお、取材したのは前出の「百田発言」の翌月(15年7月)である。

         

 公園を横切り、丘の上に続く長くて急な階段を上る。真夏の陽射しが容赦なく体に突き刺さる。数えたら120段あった。額に浮かんだ汗を拳で拭い、息を切らし、重たい足を引きずるようにして頂上にたどり着いたら、さらに、地球儀を模した球体の展望台が待っていた。ゴールはまだ先だ。中の階段を一気に駆け上って展望台の最上階に立つと、ようやく視界がぱっと開けた。南国の空は吸い込まれそうなくらいに澄んだ紺青色に晴れている。視界を遮るものはなにもない。

 展望台最上階の解き放たれた雰囲気のなか、母子が弁当を広げていた。

 嘉数高台公園(沖縄県宜野湾市)──いま、市民の憩いの場として利用される公園は、かつての激戦地でもある。

 公園内には沖縄戦時に住民が避難した洞窟や、日本軍が使用したトーチカが残されていた。トーチカの内部には無数の弾痕があり、ここで激しい戦闘があったことを物語る。

 この丘に陣取った日本軍と、それを攻め落とそうとする米軍との間で16日間にも及ぶ激戦が展開された。米兵はここを「死の罠」あるいは「忌まわしい丘」と呼んだという。

 そうした戦跡にあって、しかし見晴らしのきく展望台の上は、忌まわしさも忘れるような穏やかで優しい風が吹いていた。

 南側には浦添や那覇の市街地が広がる。西の彼方、海の向こうに浮かんで見えるのは慶良間の島並みだ。沖縄本島でも稀有なビューポイントは、北東の方角に視線を転じたとき、はじめて風景の歪みを網膜に収めることになる。小高い丘の上を流れる心地よい風は、その瞬間、殺伐とした空気に変わり、生々しい現実をくっきりと浮かび上がらせた。

 住宅やビルが密集する宜野湾の市街地を目で追うと、あるところからバッサリと、まるで鉈で乱暴に断ち切ったように街並みが途絶え、その向こう側に広大な滑走路が横たわっているのであった。「世界で最も危険な基地」と言われる普天間基地だ。

 総面積4.83平方キロ。宜野湾市の実に25パーセントを占有している基地の姿は、まさに戦後の沖縄を象徴する風景でもある。

 市街地を分断する形で広がる滑走路は、不自然というよりも、どこか理不尽で暴力的な印象を与えた。いや、これは暴力そのものではないのか。人間の営みを無視するかのようにふてぶてしく居座り、そして周囲を威嚇しているように見える。

 戦後という時間、沖縄はこのような暴力を内に抱え、時を刻んできた。

 そしていま、普天間をめぐって多くのデマが流布されている。

 普天間にはなかった、あとから住民が基地の近くにやって来た──

 たとえばこの丘の上に立ち、分断された市街地を見下ろし、広大な基地を視界に捉え、あるいは荒れ果てたトーチカと銃痕を目にしても、同じ言葉を繰り返すのであろうか。

 歴史は無視され、現実はねつ造された。

 湿気を含んだ南国の風に吹かれながら、私は丘を降りた。下り坂ではあっても、往路と同じく足取りは重い。沖縄の空は残酷だ。解き放たれたような輝き見せつけて、歪んだ現実をも影のように映し出す。         

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