「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

「毒ガス」を語り続けた人生~藤本安馬さんの激情は何を伝えたのか

 またひとり、戦争の生き証人が消えた。

 藤本安馬さんが亡くなったのは1211日。96歳だった。

 藤本さんは少年時代に大久野島(広島県)にあった旧陸軍の毒ガス製造工場で働いた。その経験を語り継ぐこと──それを自らの使命としていた。

 「大久野島は、わたくしを人間の面をかぶった鬼にしたんです!」

 「わたくし」という一人称はもとより、慟哭にも近い藤本さんの叫びと、修羅のような表情を私は忘れない。

 工員として製造に関わった毒ガスは日本軍が中国大陸で使用し、多くの犠牲者を出した。藤本さんはその事実と真摯に向き合った。

 一方、藤本さん自身も工場での作業中に毒ガスを浴び続けたことによって、死ぬまで後遺症に苦しんだ。長きにわたって大久野島毒ガス障害者対策連絡協議会の副会長を務め、国からの補償を求めて闘った。

 藤本さんは毒ガスの加害と被害、双方の苦痛を伝え続けた。「負の歴史」をからだに刻み、その苦痛に耐え、けっして投げ出すことなく、生涯にわたって人々に訴えてきた。

 あの戦争を正確に伝えることのできる人がまたひとり、わたしたちの前から消えた。

 毒ガスの記憶と反省の言葉を失った。

生前の藤本安馬さん

 藤本さんの自宅は三原市の郊外にあった。

 私が金井真紀さん(文筆家・イラストレーター)と一緒に藤本さんを訪ねたのは昨年3月のことだった。

 その頃に進めていた『戦争とバスタオル』(亜紀書房)の取材も大詰めを迎え、残るテーマはかつて大久野島に存在した毒ガス工場だけだった。

 取材を重ねるなかで、少年時代に毒ガス工場で働いていた藤本さんの存在を知った。すぐに電話で取材に応じてくれるようお願いしたが、同居するご家族は「高齢」を理由に一度は私たちとの面会取材に難色を示した。

 そこで、金井さんが取材への思いを込めた手紙を送った。相手を気遣い、無理強いはしないが、しかし「どうしても知りたい」のだと訴える誠実な内容の手紙だった。

 結果として取材を受けてくれたのは、この金井さんの手紙の力が大きかったように思う。

 私たちは瀬戸内海に浮かぶ大久野島で毒ガス工場の跡地などを取材した後、藤本さんの自宅に向かった。

 応接間で藤本さんと向き合い、あらためて来意を告げると、張りのある声が返ってきた。

 「わたくし、生まれは192667日、もともと竹原におりましたが、19451227日、ここへ婿養子に来ました。以来、三原に住んでおります!」

 兵隊が上官に報告するような独特の口調は最後までそのリズムが崩れることはなかった。

 藤本さんは14歳の時、毒ガス工場の養成工となった。といっても工場で毒ガスが製造されていることは大久野島に来るまで知らなかった。そもそも毒ガスは秘密裏に製造されていたので、地元の人も一般的な兵器工場だと思い込んでいたのだ。

 「家が貧しかったので早く働きたかったのです。しかも高給も魅力だった。食事も支給される。麦やイモばかり食べていた少年にとって、白米の食事が出るのは嬉しかった。こんなありがたい仕事はないと思ったのです」

 少年は高給と銀シャリの夢を見る。

 大久野島は輝いていた。そこに足を踏み入れるまでは。

 就労初日。船で大久野島に着いた瞬間、夢は一気に色あせた。異臭が鼻を突いた。喉の奥に痛みが走った。ただの兵器工場ではないことを悟った。

 そこは毒ガスの島だった。

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